THE HISTORY OF HEIGUN WEST AREA平郡西地区歴史のあらまし

弥生時代の土器の破片が平郡島で多く出土していることから、古くから島内には住民が暮らし、豊かな生活をしていたことがわかります。古くは平郡島のことを「黒木島」や「黒島」と言っていたようです。深緑の樹木が生い茂り、島が黒く見えたからでしょう。やがて、中世になると、島外から武士が移入してきます。
平郡西浦に、伊予国から河野水軍の一派である浅海氏がやってきました。浅海能信が勢力拡大のために平郡西浦やってきて、八幡神を祀ります。やがて元(中国)軍が北九州に襲来すると、浅海道頼が西浦の警備を強化するとともに、北九州に渡って元軍と激烈な戦闘を展開し、勝利を勝ち取りました。
南北朝の時代になると、浅海政能が平郡西浦に移住してきます。平郡西の住人になったのです。平見山に城を構え、重道八幡宮と海蔵院を創建しました。政能は頭を剃って仏門に入り、沙弥浄空と名を改めました。やがて浅海政能の息子である重道は、南北朝の合戦に北朝方(足利尊氏方)として参戦し、戦場にて討死してしまいました。その後、浅海氏は西浦に根を張り、先住の島民と一緒になって、農業や漁業を盛んにしていきました。

THE LITERATURE文献の紹介

平郡島の歴史の転換点は2つあります。
ひとつは中世の戦乱の世に移り住んだ人々によって、現在の島の基盤が整えられた時代、もうひとつは武士の世が終わり、日本が近代化に一歩踏み出した時代です。
この2つの大きな出来事を柳井市立平郡西中学校で教鞭をとられた松島幸夫先生が、丁寧にわかりやすくまとめてくださいました。その内容を先生のご厚意により、紹介させていただきます。