IMMIGRANTS TO IWAMIZAWA, HOKKAIDO北海道移民 ~平郡島から岩見沢への場合~

重道八幡宮のの参道には一対の狛犬があり台座に刻まれた銘によると献主は、明治17年より明治24年にかけて平郡島より北海道岩見沢へ移住した33名の人々である。郷土の先人たちが北海道岩見沢の開拓に尽し、成功した証として、はるか郷里の八幡宮へ奉献したものである。
平郡島出身者たちの岩見沢における活躍は驚異的で、全く群を抜いていた。山坂道で鍛えた強靭な足腰と、何にもくじけない楽天的な忍耐強さと、労働の積み重ねによって得た知恵とを生かして、周囲の驚きの目をよそに着々と開墾を進めたのであった。
開拓者たちのたちのたくましさは100年たった今なお、平郡島に生きている。島では若者の人口流出が激しく、お年寄りばかりが目につくが、彼らは、栄養学ストレス解消・ボケ対策・人間の絆・・・・がどうのこうのと身心の健康保持にかまびすしい昨今、そういう論議には耳を借さず、800年間にわたっての先人たちが積み上げてきた生活の知恵を生かして、すこぶる健康で心豊かな日々を送っている。90才のおじいちゃんが重荷を背負い、杖をついて一歩一歩足もとを確かめながら高い段々畑へ登って行かれる姿を見ると、脱帽するしかない。

第1節 山口県からの北海道移民

01 北海道移民の開始

 明治2年5月、榎本武揚の率いる旧幕府軍は、箱館五稜郭において、新政府軍に降伏した。新政府はその2ヶ月後には開拓使を新設し、さらに1ヶ月後には蝦夷地を北海道と改称して、すぐに開拓移民を開始した。
 最初の移民は東京府下500人の浮浪人であった。しかし彼らは 厳寒の中で役にたたず、ほとんどの者がその冬に送り返されている。それに続く奥州地方を中心とする士族集団移住は、言語に絶する苦労をしながらも、ともかく定住に成功した。
 それと並行して農夫の官募移住もふえた。農夫には家屋・家具・農貝類が支給されるなど、手厚い保護が与えられていた。しかし手厚保護にもかかわらず、開墾は遅々として進まず、扶助期間がすぎると脱落・転業する者が少なくなかった。開拓次宮・黒田清 壁はついに「つまらん貧民幾人移住させても、とても自立の産を営むこと万々むつかしく」と述べ、明治5年官募農民移民を中止し、明治8年から屯田兵移民にきりかえた。
 その後、明治23年の屯田兵条例の改正によって屯田兵の資格を士族に限定しなくなるまで、しばらく士族移住が続いた。
 途中、明治17年頃には特別の予算を組み「移住士族取扱規則」を定めて、移住の促進をはかった。平郡島から岩見沢への移住は、この「規則」によってなされた。 以下第1節では、平郡から岩見沢への移住の経緯を述べる前に、山口県からの移住について概観しておく。したがって平郡のことにのみ興味のある方は第1節をとばし、第2節から読まれても結構である。

02 山口県からの士族移民

 山口県から北海道への移住の端緒は、明治2年につくられた。この年新設なった開拓使は、北海道を各藩・寺院・省などの分割統治とすべるため道内を右図のように分けた。
 山口藩は樺戸・雨竜・増毛・留萌の4郡を割り当てられた。藩は開拓移民に先だって、入植地の予備調査を行ったものの、1年後に開拓使が道内分割統治策を捨て、中央集権的色彩を強めた開拓策を取るに及んで、計画はたち切れとなり、移民実施までには至らなかった。
 やがて、禄制改革によって大量の失業武士が生じたため、彼らの帰農促進を目的として北海道移住をさせることになった。つまり北海道の開拓としてより、士族授産の一環として、移民が積極的に取り組まれることになった。
 山口県からの士族救済としての移民は、次の4つの型に分類できると思う。
 その1つは、旧藩主・毛利家が国より受けた払下げ地を士族授産に役立てたもの。その2は、窮民救済組織からの資金援助を受けた旧岩国藩士が集団移住したもの。その3は、移住士族取扱規則による募集に応じ、他県の者と一緒に移住したもの。4つめは、半農半兵である屯田兵としての募集に応じたものである。 それぞれの型についてみてみよう。

03 余市郡大江村へ(類型1=旧藩主所有地への移住)

 特権を奪われ困窮を極めた旧藩士たちは、明治9年前原一誠を首領として萩の乱を起こした。もはや士族授産は何にも優先して緊急になさねばならぬ課題であった。
 この時すでに山口士族授産局は、官有地の払い下げを受け、その荒地を貧窮士族に付与開墾させることを計画していた。その候補地は、山口県内はもちろん滋賀・京都・大阪・兵庫にもあった。しかし払い下げは思うにまかせず、十分な成果は得られなかった。
 そこで、旧藩主毛利家では、先に北海道余市川沿岸510万坪の払い下げを受けていた土地に300戸の士族を移住開墾させ、地主・小作関係を結ぼうと考えた。
 毛利家は、毛利家開墾移住民条例を定め、次のような条件で入植を行った。入植者には、家屋と家具それに2年分の食料が支給され、土地は1戸につき1万坪が貸与された。そして入植者は永久小作人となり、地代は入植4年目から納める契約であった。移住の費用は士族就産所(もとの士族授産局)から支給された。
 第1回目の移住は明治15年7月。萩を出発した一行は三田尻(防府)で乗船し、海路東京に赴いて、毛利公に面謁した。さらに海路北上して小樽で下船、陸路余市郡大江村へ入った。以後5年間に計画的に移民がすすめられた。
 やがて、開墾に成功した小作人たちは、いっせいに開墾地の払い下げを毛利家に求めることとなり、明治28年から10ヶ年割賦・1町歩30 円で、土地を自分たちのものとした。

04 札幌郡山口村へ(類型2=旧藩士の集団移住)

 明治6年岩国には、旧吉川藩の士族救済のため義済堂という救済組織が設けられた。義済堂は諸産業の振興を図るとともに低利で窮民に金穀の貸与も行った。
 さらに北海道移民に際しても、積極的に資金援助を行った。旧岩国藩士の移民は義済堂の協力援助によってなされたのである。
 明治14年、今津村(現岩国市今津)の宮崎源治右衛門らは同志と共に北海道の調査を行い、新天地として札幌の北西・太平洋を臨む地(現札幌市西区手稲山口)を選んだ。翌15年、14戸が第1回目の移住を行った。彼らは、その地を郷里山口県の名にちなんで山口村と名付けた。
 山口村の土地条件は始めに予想していたほど良好ではなかった。海岸線は砂丘が続き、その内側は湿地で排水溝を掘らねばならず、苦労は並大抵のことではなかった。厳しい冬の寒さやバッタの被害もひどく、生活は困窮の極に達し、宮崎源治右衛は私財1,500余円を投じて、移民を助けたりしたが、やむなく脱落していった者も多かった。
 明治16年の札幌県勧業課第2回年報には、当時の様子が次のように 書かれている。

 山口村八昨年以来山口県下ヨリ移住セシモノニシテ戸数十七、人口七十八男五十一人、女二十七人、反別二十町内外ヲ墾成セリ。
 着後僅カーケ年ニシテ此ノ反別ヲ墾成スルノ状アリシガ、昨今其状体ヲ一変シテ事業八前日ノ如ク進歩セズ、生計上頗ル困難ヲ来シ、諸方第二出稼スル者、一日ヨリ多キヲ加フ。蓋シ諸移民八農業ニ熟達セズ、忍耐力ニ乏シク且ツ独身者多キヲ以テ随ッテ土着ノ念モ厚カラナラザルベシ。

 その後も、山口県からの移住は続き、明治19年までに60戸の移民があった。また広島県人、富山県人も交えての開墾競争も活発となり、開拓の成果は次第に上昇していった。ついには、暖地の作物と思われていたスイカの名産地にまでなったのである。

05 空知郡岩見沢村へ(類型3=移住士族施取扱規則による移住)

 明治10年、鹿児島の不平士族によって起こされた西南の役を激戦の末にやっと鎮圧した後も、士族授産は全国的に進まず、士族の困窮化は一層進み、不満は一向に衰えなかった。
 そのような状況下にあって政府は、明治14年、士族授産資金として向こう8年間に毎年50万円ずつ計400万円を支出することに決定した。翌15年、内閣顧問黒田清隆は、その士族授産のためには、北海道移民が有効であることを説き、移民促進を建議した。
 彼の意見は入れられ、最も貧困で自力移住できない士族を移住させるため士族授産資金のうち3割にあたる毎年15万円ずつ計120万円を北海道移住のために使うことした。その財源に基づいて、移住士族取扱規則が定まり、この規則によって明治17年~19年に札幌県岩見沢へ277戸、函館県 木古内へ105戸、根室県鳥取へ106戸が移住した。
 本稿で取りあげる平郡島から岩見沢への移民はこれにあたる。
 詳細については第2・3節で述べる。

06 空知郡滝川村へ(類型4=屯田兵としての移住)

 北海道移民の諸形態の中で、最も規模が大きかったのは、屯田兵移民である。明治8年札幌近傍琴似の入植を始めとし、明治33年の募集停止まで25年間にわたり、約4万人が入植をしている。
 周知の如く、屯田兵は半農半兵で、平時は開墾農業に従事するかたわら、有時には武器を手に出動の義務を負っていた。その生活の様子について内田実氏は「流域をたどる歴史、石狩川」で次のように述べておられる。

一般的な間取り

一兵村の戸数は最初240戸を目標にしていたが、後には200戸となった。一村は中隊を編成していた。(中略)兵村にはふつうの農村と同じように農耕地、道路、墓地、学校用地、防風林敷地などのほか、射的場、練兵場、中隊本部敷地、官舎用地などが必要であった。これらの用地は、兵村の計画的な区画の中に配置されていた。
 屯田兵には、一般の移住者に比べると手厚い保護が与えられていた。つまり、移住後は兵屋、家具、寝具、農具、種子などのすべてが支給され、入地後、三年間は扶助米、塩菜料が与えられるなどの点である。給与地にも変遷があるが、23年からは、1.5万坪が与えられ、道庁が移住農家1戸に貸与した面積と同様となった。兵屋にもいくつかの型があったが間口五間、奥行三間半というのがほぼ標準にされている。
手厚い保護が与えられたといっても、屯田兵の日常は厳しい生活の毎日であった。4月から9月までは午前4時に起床、6時就業、12時に食事、午後は1時から就業して6時に引揚げ、その間11時間の就業、10月から3月までは午前5時起床、午後5時引揚げで9時間就業と厳しい日課が定められていた。毎朝起床ラッパで起こされ、人員検査が行われ、就業時間中みだりに兵屋にいることは許されなかった。軍事教練は最初12月から4月までの農閑期に行われていたが、これでは効果が上がらないというので、明18年からは移住後3ヶ月、特科隊は6ヶ月間毎日練兵場で訓練を受け、その後はときどき農閑期に行った。屯田兵の服役中には西南、日清、日露の戦争があり、屯田兵は兵村こそ異なるが3回とも召集令が下り出征した。

滝川の屯田兵村上原轍三郎「北海道屯田制度」による

兵村名入植戸数入植の年
南滝川222戸明治22年
明治23年
北滝川218戸明治23年
南江部乙200戸明治27年
北江部乙200戸明治27年

 4万人もの屯田兵が配置された理由としては、政府が入植者に必要とした性格を屯田兵が満たしていたためである。政府は屯田兵移民に一石四鳥の効果をねらっていた。
 その1つは、もちろん北海道の開拓。2つめは、樺太の領土問題と大陸進出策を背景とする軍備増強。3つめは、檜山騒動をきっかけとする北海道の治安対策。4つめは、困窮士族の救済であった。
 時々の状況によって、それらの必用度はたえず変化した。明治22年に山口県平郡島から南滝川へ屯田兵移民した頃は、先に述べた士族授産費の北海道移住のための120万円のうち、移住士族取扱規則による使用分の残額88万円余を屯田兵移民資金に引き継いた時期であり、士族救済の性格が強かった。 平郡島から滝川への入植戸数等の詳しい資料が手元にないので、これ以上のことを述べることはできないが、現在の両地の親戚づきあいからして、岩見沢の29戸に近い数が入植したものと思われる。

第2節 平郡から岩見沢へ

07 平郡士族

 前項で触れたように、平郡島から岩見沢への移民は、困窮士族の救済を目的とした士族授産資金を財源とし、明治15年に発布された移住士族取扱規則(札幌県では、それをうけて翌16年同名の条例を制定)によってなされた。したがって移民応募者の資格としては、まず土族でなければならなかった。
 ここでは平郡の人々が士族として認められるに至った経緯について述べておこう。
 弘治元年(1555)、毛利元就は陶晴賢の大軍を厳島の合戦において滅ぼした。その時、平郡島西浦に砦(平見城)を構えていた水軍浅海氏は他の屋代島衆(屋代島及びその近辺に在住し、大内氏の警固を勤めていた、桑原、沓屋、守友、櫛辺、原、長崎、栗田、塩田、神代、浅海の十氏をさす)と共に毛利・陶のどちらにも組せず傍観の姿勢をとった。


 しかしこの時、平郡東浦の鈴木左近介は浦人約100人を伴って馳せ参じ、暴風雨の中、毛利軍を首尾よく厳島へ輸送し、陶陣急襲に大きな功績を果した。その戦功によって平郡島は貢租免除の特権を与えられた。また同時に平郡島での権勢の座が西の浅海氏から東の鈴木氏にとって替わることになった。
 毛利氏の萩移封後、平郡島民は厳島での船役の功をかわれ、舸子(船の清掃や薪くべなどをする水夫)として三田尻(防府)の御船倉に交替で出勤することになった。舸子の対象は島民全てであり、三田尻づめの人数は、90人、やがて100人、さらに貞享期には125人に増やされている。藩政時代、平郡島民は、農業をするかたわら舸子の番に当った年は、 御船倉や藩船でその任を果したのであった。
 平郡全島が免租に近い状況であったために、農作物は作り取りであったが、島には平地が少なく、れき岩の多いやせた土地であったから生計はさして豊かなものではなかった。
 やがて幕末。四境戦争(長州征伐)にあたり、平郡島から100名の義勇兵を三田尻海軍局へ出頭させるよう命が下った。本島よりの義勇兵は中ノ関の見張軍艦船等の任務についた。藩はその忠勤に対し鈴木、浅海、伊藤、原田の4氏を士族外交役とし、382戸を三田尻海軍局の支配下に置くことにした。
 旧幕府勢力を一掃し終えた明治3年、舸子一同が卒族(下級武士)として認められ山口軍事局の直割となった。
 さらに翌4年には、皇族、華族、士族、平民の身分を新設したことによって、卒族が廃止され、士族に編入されることになった。
 以上みてきたように、平郡島には庄屋を代々勤めた鈴木氏以下、禄によって生計をたてる武士は存在しなかった。島民は皆、百姓身分として農業を営むかたわら舸子としての労役を果したのであった。明治維新で舸子が士族に列せられたということは、島民全て(分家・新宅を除く)が士族になったということになる。
 こうして平郡島民は、士族移民募集の対象となったのである。しかし、士族移民の本来の目的である禄を失った失業士族の授産という面では、平郡は該当がない。
 それでは募等に応じた真の理由は何であったのだろうか。

08 移民応募の理由

 平郡島からの移民は北海道ばかりではなかった。岩見沢、滝川への移民と時を同じくして、ハワイへの宮約移民募集にも多くの者が応じている。
 明治18年の第1回目の官約移民で、全国から923人がホノルルへ向けて出港したが、そのうち平郡島出身者が実に55人を占めていた。その後も平郡島からは毎回30人余の渡航者があり、明治22年までの5年間に249人がハワイに移住している。
 当時農村の不況は甚だしかった。明治10年の西南戦争によって引き起こされたインフレに加え、連続した天災によって農民の生活は極めて苦しくなっていた。とくに周防部では明治16年の干害、翌17年の風水害による痛手が大きく、明治17年6月9日付の防長新聞は、平郡島から目と鼻の先の大島郡安下庄について「農民漁夫は最も困難をきわめ、日々の食餌に、ぬかあるいはそば麦粕、豆腐粕等に柿の葉、ピンピン草を混和して常食となし…」と窮状を報じた。さらに3ヶ月後の同新聞は「このままにて一両年過せば、餓死する者も出るらん」と生計が全く限界に達したことを告げている。このような事情からハワイ渡航者のなかで、平都島を含む大島郡出身者が多数を占めることになった。
 平郡から岩見沢や滝川への移住も、今みてきたような事情によるものと思われる。それを裏づけるように、こんな話が今も平郡で聞かれる。それは「 兄弟で名前を交換して北海道へ移住した」とか「士族の株を買って移住した」とかである。
 その意味するところはこうである。平郡島においては、長男で家を継いだ者は士族であり、次男・三男で分家・新宅となってゆく者は平民であった。したが って長男には北海道移住資格があるが二、三男にはなかった。しかし実情としては、長男は先祖伝来の土地を所有しているので移民の必要はなく、むしろ生産手段を何ら持たない二・三男にその必要があった。(東浦は総領相続制をとらず、ややその傾向はうすかった。)うち続く天災によって、疲弊した島が生きのびるには、過剰人口を排出する以外に手はなく、田畑を持たない二男、三男がその十字架を背負うことになったのである。彼らは長男の名を借りたり、戸籍上の操作をして、士族になりすまし移民に応募したのである。
 反対に受け入れ側である札幌県の立場からすれば、土を耕したことの全くない士族ばかりでは、とうてい開墾の実をあげられないとみて、農作業の師範となりうる者を当然求めたであろう。そういうことから、資格審査がゆるくされたことも幸いしたかもしれない。現に、100戸に5戸の割で師範農家を入植させることが計画され、岩見沢では277戸の移民に対し6戸の農家がその任を命じられた。

岩見沢への出身地別入植数岩見沢への出身地別入植数「岩見沢開拓の先駆者」 岩見市教育委員会より

 山口(平郡)鳥取石川滋賀山形秋田 大分三重富山愛媛島根福岡
明治17年64(24)0422221111080戸   459人
明治18年72(18)1058030001026197戸  1,044人
136(42)10512252212136277戸  1,503人
09 移民募集と移民願

 札幌県は、明治16年11月、農商務卿・西郷従道へ次ページの図を添付して、次のように報告している。
 「空知郡字郁春別より字岩見沢の間の一里四方が肥沃であるうえに、鉄道と二本の川があって陸運水運に恵まれているので、植民の該当地に選んだ。来年度4月にまず150戸が移住できるよう準備を進めている。そして、官報及び二・三の新聞に広告を掲載する手筈になっている。」 ただちに官報が出され、各県庁を通して募集が行なわれた。これに応募する者は、移住願を札幌県令に、渡航保護願と渡航票交付願を農商務卿に、渡航届を出身地の郡長に提出した。

移住願

明治十六年用第二十五号御令達、移住士族取扱規則ヲ遵守シ御県下へ移住農業一塗ヲ以テ家産相営度候間、移住之儀御許可被成下度別紙戸籍明細相添此段奉願候也。

山口県周防国(出身地)
士族(移住者指名)

明治十七年(日付)
札幌県令 調所広丈殿
前書出願之趣相建無之候也

右戸長(戸長氏名)

10 新天地岩見沢へ

 こうして平郡島から明治17年に23戸、翌18年に6戸の者が岩見沢へ移住した。その後も移住が続いたことは確かであるが、数は不明である。重道八幡宮の狛犬の台座に刻まれた33名のうち明治17・18年に移住したと確認できる者が23名であるから残り10名が明治19年から24年の移住ということになる。このことからして明治17年から24年に少なくとも39名の移住者があった。

移住者名簿

明治17年
鈴木歌之丞
浅海敦之助
田村平次郎
西村藤左衛門
加藤幾次郎
中田浅次郎
久本与三郎
岡田市次郎
江口伊勢五郎
田村幸之進
杉原久太郎
西村長右衛門
長谷川作左衛門
桝田乙五郎
岩本常次郎
広田七郎右衛門
猿田萬蔵
竹内十次郎
山本作松
加藤八郎右衛門
浜田金作
竹内栄作
岡本三蔵
明治18年
西村清左衛門
大国三郎
田中卯三郎
三谷与三左衛門
大野滝蔵
大野栄之助
明治19年
西村○吉
岡本伊助
藤井力子
松本伊作
田中久次郎
西村才蔵
中村梅次郎が?
春本元吉
春本○太郎
土田吉次郎
不明
不明
不明

※ 〇は重道八幡宮の狛犬に銘がある者

 それではどのようなコースで岩見沢へ行ったのであろうか。明治18年7月5日付入植の場合をみてみよう。
 山口県の出身者は徳山の近傍に新しくつくられた滝口という港に集合し、そこで明治丸に乗船した。客船明治丸は美しく畳敷きであったので、乗り心地はよかったが、故郷をあとにする淋しさで、涙を流しながらの旅であったという。途中、嵐にもあったが無事横浜へ着いた。
 そこから東京へ出向き旧藩主に伺候して、激励の言葉を賜った。3日後、貨物船住の江丸に乗り替えて、横浜を出港したが、波にもまれ食事をとることもむつかしく、激し いローリングによって棚から落ちる者もあり、難儀を極めた。そうして小樽の港へ着いたのは、徳山の港を出て12日目であった。
 一行は小樽越中屋旅館に役宿し、入植区画の割当て抽せんを行った。小樽の町は意外に立派であったので、北海道に来たことを皆喜んだという。しかし、その喜びつかの間-
 小樽からは汽車・義経号に乗せられたが、無蓋の石炭貨車であった。石炭同様の扱いによる不満と、初めての乗車というもの珍らしさの入り混じった複雑な気持で揺られていたが、札幌付近から雨となり、傘をさしての岩見沢着となった。 岩見沢仮停車場の周囲はすべてうっ蒼たる森林。出迎えの者に導かれ雑木と草のトンネルをくぐり、昼なお暗き密林の中へ入植していったのであった。

11 入植の基盤整備
明治4年
廃藩置県による大量の失業武士の発生
5年
平郡舸子が士族となる。
6年
幌内炭田発見。
12年
幌内炭山開坑。岩見沢のうえに鉄道敷設ルート決定。
13年
手宮~札幌間鉄道開通。
14年
樺戸集治監開庁
15年
空知集治監開庁。札幌から幌内間鉄道開通。
16年
札幌県が移住士族取扱規則を制定、岩見沢に旅人宿できる。
17年
岩見沢簡易停車場できる。岩見沢への第1次士族移民

 明治17年、平郡島からの23戸を含む80戸の入植によって岩見沢の開墾が始まったのであるが、それ以前に鉄道を敷設するなどの基盤整備ができていたからこそ、それは可能になったのである。ここで入植以前の様 子について少しみておこう。
 幕末。箱館が開かれたことにより蒸汽船の石炭を必要とすることにな ったので、北海道に白糠、茅沼の炭鉱が開発された。
 やがて需要の増加に対応するため、道内全域を調査した結果、幌内(岩見沢より東北東10km余)に大量の優良炭が埋蔵されていることがわかり、御雇外国人クロフォードの指導によってその開発を行うことにした。明治12年、幌内炭田から小樽へ石炭を運び出すための幌内鉄道を敷設するプランができた。岩見沢の原始林・荒野のうえに敷設ルートが、線引きされたのである。
 明治13年、小樽(手宮駅)から札幌間の工事を開始するにあたって道庁長官、岩村通俊は囚人の労働力を採用することにし、原始林の伐採、断崖の掘削等約35kmを、まったく彼らの人力で以って行った。使役囚人800人のうち苛酷な使役によって200人余の者が死亡するという難工事であった。小樽から幌内まで全線90kmが開通したのは、明治15年11月13日。そして翌日、すかさず幌内の石炭は手宮桟橋におろされた。
 また道路工事も困難を極め、岩見沢から滝川への沼沢湿地帯を通るエ事では「1間1人の人柱」といわれたように、おびただしい囚人の死骸がちらばった。
 明治18年、北海道の巡視におもむいた太政官書記は、そのことに関連し「囚徒をしてこれを必要な工事に服せしめ、もしこれにたえずたおれ死してその人員を減少するは、監獄費支出の困難を告ぐる今日に於て、万やむを得ざる政略なり」と復命している。何と残虐非道な見解であることか。こうして鉄道・道路がつくられるや、沿線には次々と移住者が入植していった。つまり、北海道移民の基盤整備は集治監囚人たちの生死をかけた労働によってなされたのであった。

第3節 平郡出身者による岩見沢村の開拓

12 入植地の区画割当

 札幌県は、先に選定した岩見沢入植予定地を細分し、抽せんでもってそれぞれの移住者に1区画ずつを割当てた。明治17・18年分の入植状況をあらわした地図をみると、平郡出身者を1ヶ所にかためることはせず、他地区からの移住者と混住させている。
 割当てられた土地の広さは1戸につき5,000坪であった。移住士族取扱規則によると10,000坪となっているが、平均的にみて、それだけの開墾はむりと判断したらしい。5,000坪をすべて開墾した者には、順次給与地がふやされ20,000坪までの所有ができることになていた。
 明治17年に平郡島から23名の場合、入植1年後に、1戸平均2,220坪を開き、当初割り当てられた5,000坪を開墾し了えた者が10戸あった。

13 移住士族取扱規則と開拓の苦労

 さて入植後の生活はどのようなものであったのだろうか。それを知るには、移住士族取扱規則 (細則も含む)をみておかなければならない。入植者たちの生活は「規則」によって拘束されていたからである。
 「規則」によれば、各戸とも1日20坪以上の耕地を新墾する義務を負っていた。もしその日課が果たせない時には、翌日にその分を取りもどさなければならなかった。
 この労働成績は、各戸ごとに日課表に記入し、毎週総代(20戸の代表者)がとりまとめて、戸長に提出して点検を受けることになっていた。点検の結果、その義務が果たせないことが3回に及んだ者は、その軽重を審査し、軽い場合は5日~10日、重い場合は1ヶ月~3ヶ月間、米塩・味噌の貸与が停止された。
 また一日の労働時間についても拘束を受けていた。例えば6月~8月の場合、朝6時には仕事に就き夕方7時まで労働することになっていた。しかし それだけの時間でもなお日課が果せず、夜遅くまで月明りをたよりに、クタクタになるまで働かねばならなかった。家に帰ると、あとはもう野良着を着たままごろっと横になって寝てしまうだけの毎日だった。朝になっても疲れはとれず、「こら!指っこ起きろよ!」と自分の体のあちこちを叱りながら開墾に出かけたという。
 休日については1年間に、正月の6日間と決められていた。
 その他、様々なことについて規定があり、「新選北海道史」では、「その自治委任の範囲はすこぶる狭少で、一面屯田兵制度のそれよりかえって窮屈な制度の下にこれを拘束する」ものであったと著述されている。
 肥沃な土地ということで岩見沢が入植地に選ばれたのであったが、実際に入植してみると草藪の下には幾筋もの小川が縦横に蛇行をなし、泥炭があちこちに分布していた。泥炭とは枯草が長年の間にたい積したもので、その中を冷水がしみ流れ、とても農耕に利用できるものではなかった。また良質な土地には原生の巨樹が生い茂り、伐り倒すことはできても巨根を大地にからませどっかとすわた切り株は何ともならず、新墾は思ったほど容易ではなかった。
 入植当初は、うっ蒼たる森林に圧倒されどうしたらよいかもわからず、家の周囲の熊笹を刈ってみる程度で、てんで仕事にならなかったらしい。おのずと家に引き込もりがちになったため、道庁は監督を厳重にするため原直五郎を常駐させることにした。彼は先に述べた一週間ごとの日課表の検閲はもちろん、雨天であろうが、大吹雪であろうが、毎日々々木陰から入植者の働きぶりを監視し、姿が見えぬ時は家に入って追い出した。監督は厳重で、真冬の雪の日にも軒先で薪割りをさせられた。もし怠ける者があれば、それ相応の罰が与えられた。入植者たちは罰を免れるため、原が来ると「そら勧業が来た!」と互いに連絡し合うようになったという。そうするうち開墾によって自分の土地をふやそうとするより、如何にして監督の目をごまかし、さぼろうとするかが、全体的な雰囲気になっていった。生まれて始めて鋸や鍬を持たされた士族たちが、へっぴり腰で作業をするのだからむりもなかった。
 ただ平郡出身者たちは、強健な体と熟達した技でもって着々と開墾地を広げていった。かといって生活にゆとりがでるのは後々のことであって、当面他の出身者と同様苦しい生活を強いられていた。

成績不振の処分上申書及び仕末書札幌県 治類典より

移住士族処分之儀上申

 当郡移住士族(A)外弐名課程ヲ怠ル事再三ニ及候付、移住士族取扱規則第四条第五号に照シテ右之通全家米塩噌ノ貸与ヲ停止仕度ク始末書三通添比段上申仕候也
明治十八年十一月七日

勧業課岩見沢派出所出張
七等属 原 直五郎

札幌県令 調所広丈殿

一、七日ヨリ向フ七日間停止(被処分者A)
一、同日ヨリ向フ三日間停止( 被処分者B)
一、同上         (被処分者C)

仕末書

私儀

 明治十七年九月移着之際、地所御引渡後胃病及ヒ貧血病相煩腹薬仕候処今以確々無御座候間伐木開墾之義手後ニ相成候処追々課程之義御説諭有之甚ダ不都合二美至リ就テハ養子貰受度種々心配仕候処相応ノ者モ無之初是心痛罷在候折柄今般御順廻之○伐木開墾ヲ怠り候次第始末書差出之趣御達シ相成何共奉恐入候依之始末書ヲ以上申仕候也
明治十八年十一月

(被処分者C)
右総代 吉岡清亮

勧業課派出所御中

借用証書

 一金千五百円
是ハ明治十七年御貸与仮家作料弐拾戸分壱戸ニ付金七拾五円ツツ合如此
 右御貸与相成正二拝借仕様ニ付テハ都テ御規則之通相心得聯力無相違反納可仕候 万一期限相滞候等不都合有之候節ハ本人二係ハラス連借 人ニ於テ悉皆弁納可仕候為後日拝借証書如此候也
明治十七年十二月一日

拝借人(20名の氏名)

札幌県令 調所広丈殿代理
札幌県大書記官 佐藤秀顕殿

 一金・三拾七円五拾銭
 是レハ小樽港ヨリ移住地岩見沢村迄陸路二十一里余二付御規則之荷物運送費五戸分、壱戸ニ付金七円五拾銭宛如此
 右御貸与相成正二拝借仕候二付テハ都テ御規則之通相心得聯力無 相違反納可仕候万一期限相滞候節等不都合有之候節ハ本人ニ係ハラス連借人二於テ悉皆弁納可仕候為後日拝借証書如此候也
明治十八年五月十五日

拝借人(4名の氏名)

札幌県令 調所広丈殿

 家は6畳2間に台所という小さなものであった。土壁ではなく一重板壁であったから、建ててしばらくして板が乾くと、すき間や節穴ができ、冬になると雪が吹き込んだ。朝目ざめてみると周囲には真白に雪が積もり、布団の上だけが人の体温で融けていた。その布団もせんべい布団で、敷1枚、かけ1枚だったというから想像するだけでもぞっとする。朝の冷気の中でキセルをくわえると口びるに凍りついて引っ張ると皮がむけ血が出たという。
  夏とて快適なものではなかった。原生林に育ったブヨや蚊の 攻撃はすざましく、手足が大根の様に膨れあがった。どの家でも浅い井戸を掘っていたが、くみ上げた水は赤かっ色の汚水で、新しい手拭も1回洗うとたちまちにして赤かっ色に染まったというから、とても飲料水として使えるものではなく、飲料水は川から運んだ。そして夏にはマラリヤ、秋には腸チフスが蔓延し皆を悩ませた。
 次に生活扶助のための給与と貸与について見てみよう。
  食料の給与は1人当り、7才~59才の者には玄米5合・塩噌料1銭5厘、7才未満と60才以上の者には玄米3合・塩噌料1銭であ った。農具の給与は1戸当り、鍬3、鎌2、山刀1、鋸2、鐇1、鑢1、砥石2、肥桶1、種子料1円50銭(初年度のみ)であった。
 また1戸あたり、仮屋作料75円、農耕牛馬代25円、移住時の鉄運賃10円等、合計330円を限度として貸与がなされた。それら貸与金の返済は8ヶ年目より向う20年賦であった。(しかし実際には、入植民たちの自立がうまくいかなかったために、政府は返済義務を免除することになる。)
 しかし、支給される食料や貸与金だけでは生きていけず、開墾のかたわら副業的に金稼ぎにも渾身の努力を払った。
 その役を荷負ったのは、おもに妻子であった。往復16㎞の鉱山町へ物資の運搬をして、微々たる駄賃をもらったりした。主人が運搬稼ぎをする となると夜中でなければならなかった。冬のある夜1時に起きて米を40㎞先の夕張まで届け、2円を稼いで帰る途中、吹雪に遭った。寒さは肌を刺し骨にまで達した。ようやくのことで自分の家の軒先までたどり着いたが半死半生の状態で家に入ることができず、倒れこんでしまった。妻が介抱をしたが、凍傷で顔が紫色に膨れあがったという者もあった。
 こんな状況にあって、ついにもちこたえられず、苛酷な条件下でやっと開墾した血と汗との結晶である一万坪の土地をたった6円で手離し岩見沢を離れていった者もあったという。

14 平郡出身者の模範的開拓

 当時は現在のようにTVがあるわけでなく情報にうとかったため、よそ者に対しては排他的観念が強かった。したがって入植後しばらくたっても、出身地ごとに行動する傾向があった。とくに入植者数の多い山口県と鳥取県の両者は反目しあうことが多かった。
 山口県出身者は盆踊りに長州音頭を、鳥取県出身者は因幡踊りを別々に行っていた。
 また山口神社・鳥取神社と別々な神社を建立し、別々に 祭礼を行った。かといって山口県出身者が団結していたわけではなく、中では萩・岩国・平郡ごとにそれぞれがグループ意識をもっていた。
 同郷の者たちは共通の生活習慣をもち、知恵を交換しあい、励ましあっていたから、働きぶりや開墾の進みぐあいにも出身地ごとの傾向があらわれてきた。
 とくに平郡島の場合、他の出身グループと違い純然たる武士ではなかったから、きわだった特徴をみせた。明治18年12月の札幌県報に出身地ごとの働きぶりや開墾の進展状況が載せられている。平郡島のところを引用してみよう。

十七年八月二十五日周防国大嶋郡より移住せる二十七戸、従来農業に慣熟し其志操着実にして能課業に従事するを以て、既に開根僵木等の占せる所となる故に玆に掲る者は是等を除き、播種し得べき墾成地のみを掲ぐ以下倣え即ち一戸平均七反二畝歩余を得たり。

 而して当初割渡したる五千坪を墾成し了るもの十戸あり、依て之を他の移住者に比すれば総て能く労働に堪ゆるものの如し、然れども比移住民多くは余○あるにあらざれども亦能く帯に質素節倹を守り、殊に本年は、大小麦並他雑穀等相応の収穫を得たれば生計上多少の余裕を生すべし。故に自今益々勤倹貯蓄に注意し物産増産を計り改々勤勉怠らざれば其の目的を達する蓋し敢えて至難に非ざるなり

と、平郡出身者たちの勤勉ぶりと、良好な開墾成績を誉め称えている。
 それに対し岩国萩の評価は手厳しい。
岩国については、

同船にて同国玖珂町より移住せる者六戸あり、身体極めて 軟弱にして其労働遠く前移住地(平郡のこと)に及ばず。開墾反別の如きも二町八反六畝歩、即ち一戸平均四反七畝歩余に過ぎざるなり

また萩についても

長門国阿武郡より移住せし三十四戸は総て農業に慣れざるのみならず、身体柔弱にして労働に堪えざるが如く、間々課業の捗取らざるものあり、監督者之を査察督責すれば或は土地の卑湿を愁い、或は樹木の密立を嘆く等、種々の苦情を唱うるものあり。是等は軍意素志の確立せざるより将来の利益を謀る事を知らずして眼前の消利に、○○し、勉強 に乏しきものというべし。其墾成地、多きは二、三千坪、少なきは一千坪に充たざるあり、之を通業すれば即ち、十五町八反三畝余にして、一戸平均四反六畝に過ぎず。

と嘆いている。
 他県の状況についても、福岡県からの五戸を誉めているのみで、他は概ね「気力に乏しきものと云うべし」というような芳しくない評価をしている。  翌明治19年、第1回北海道勧業年報の「岩見沢村移住士族景況」では、 全般的に麦・蚕・大豆・小豆・馬鈴薯がよくでき、開墾も順調に進展しはじめたことを報告した後に、

而して移住以来能ク力作怠ラザルヲ山口県大島郡ノ士族二十六戸トス。 其ノ一戸墾成多キハ一万坪、少キハ三・四千坪二至ル。本年秋収アリテ食糧余裕アルヲ以テ儲蓄約規ヲ設け、本年ヨリ向フ六ヶ年ニ其収穫スル所ノ幾分ヲ蓄エ 緩急共済ノ用ニ供センコトヲ図レリ。

と平郡出身者の成績が最もよいことを述べたうえで余分の収穫を得たので、後々のためにそれを蓄えにまわしたことも報告している。

岩見沢村の収穫状況北海道庁勧業年報より

品 種明治18年明治19年明治20年明治21年
小 麦作付段別55町1132町6134町7157町7
収穫高566石966石1,031石1,000石
大 麦作付段別2町71町94町913町8
収穫高13石30石20石101石
裸 麦作付段別25町664町671町264町2
収穫高232石566石558石478石
蕎 麦作付段別?80町247町451町1
収穫高553石98石618石420石
作付段別26町444町827町524町8
収穫高551石526石250石137石
作付段別16町741町725町117町0
収穫高372石439石140石47石
大 豆作付段別44町163町339町341町2
収穫高345石311石333石358石
小 豆作付段別24町931町725町423町8
収穫高265石150石150石149石
豌 豆作付段別5町95町08町0
収穫高33石49石104石
馬鈴薯作付段別17町818町613町720町4
収穫高1,625石1,933石 12,798石
作付総面積286町485町579町480町
15 移住士族取扱規則廃止後の様子

 移住士族取扱規則は明治18年に廃止された。そこで当初計画されていた士族受産金は32万円を消化しただけで88万円が残ってしまった。そしてその残金は屯田兵増募にふり替えられた。
 その背景としては、軍部が大陸進出にそなえて軍備拡張を主張し、屯田兵の増強を要求したからであった。また移住士族取扱規則による開拓状況が全体的に見れば芳しくなく、入植者たちの独立自営化に展望がもてなかったこともその決定を促す結果となった。
 いずれにしても明治政府は不平士族の反政府運動を抑止する方策として授産金を用意したのであるが、その面から言えば、原因はいろいろあろうが、自由民権運動も鎮静化しその目的は一応達成できたと見ることができる。
 岩見沢村に話をもどそう。 「規則」が廃止されると岩見沢村民は新しく「移住士族申合せ規約」を自主的につくった。それは、一致団結や農事に精励し質素を旨とすることなどの申し合せであって、「取扱規則」が命令であったのに対し、これはみんなの努力目標の決意を表明したものになっている。

移住士族申し合せ規約中島家文書より

第一条
我移住者は旧に倍し一致団結互に協力しあい、毫も軋轢怠惰の挙なく、且つ生活は努めて質素を旨とし殖産の隆盛を図る事。
第二条
政府より下賜せられたる資本金は、移住者の共有金として相応の利殖を設け、総代人に管理せしめ移住者の利益たる場合に限り支出し、幾多の困難に遭遇するも決して各自に分割せざること。
第三条
資本金を使用して、事業を起さんとする時は、必ず其方法の確実適正なるものを撰び、郡戸長を経由して、北海道の承認を得て資金を支出して、決して射倖の起業を為さざる事。
第四条
各自の耕地は怠らず犁鋤耕転し、農事に精励するは勿論、余力ある者は新に土地の貸下を得て、完墾に従事し倍々農業発達を計り、決して当初の目的に反し、官庁の保護に背くの所為を為すべからず。

以下第十六条まであるが省略

 したがって入植者たちにとって移住士族取扱規則の廃止は自治の拡大になり好ましいことであった。
 ところで第二・三条で触れている資本金とは何であろうか。「取扱規則」によって、移住者に貸与された金は、当初返済すべきものであった。が、政府は入植者たちの生計維持確立が困難な状況にあるため、貸与金返済の義務を免除するという実に寛大な決定をしてくれたのであった。そして明治23年4月に正式に棄権処分が行なわれた。
 岩見沢村の場合、貸与金5,0811円に対し1,008円の返済をまずさせ、その 残高4,073円を返済免除として岩見沢村に与えた。それに加えて、2,770円 を備荒貯蓄金として村に給与した。そうして生じた資金の使途について、「規約」の第二条に「共有金として…決して各自に分割せざること」と唱っているのにもかかわらず、全戸に均等配分しようとの声が高まった。郡長は公有財産として貯蓄することを主張したが、結局各戸分配に決まった。公有財産と しては1,008円の返済金が村に下付されたので、それを明治25年に岩見沢等尋常小学校建設に使用したのみであった。
 その頃の平郡出身者の状況をつかむ資料は見あたらない。(出身地ごとの評価を行政がしなくなった)ただ、明治24年、第2回品評会を岩見沢村とその近郷集落を含めて開催したところ、897年人もの人が農産物を出品した中で、平郡島出身の大野滝蔵氏が一等賞を獲得し賞金3円をもらっている。相変らず平郡島出身者たちが模範的な農業経営を続けていたであろうことが推測できる。
 そういう先輩たちを頼って、平郡島から岩見沢への移民は、明治末、大正、昭和初期へと続いていった。
 以上で移民の考察は終わる。
 当初私には、移民の様子を正確に報告しながらも、先人たちの汗を感動的に描き出したいという気持もあった。しかし今脱稿を前にして、文は拙くその意を果していないことを残念に思っている。 ただ幸いにも、岩見沢の開拓者たちの努力を讃え、未来への希望を高らかに謳った交響詩「岩見沢」が手元にあるので、それを紹介して本稿の拙さをカバーしたく思う。

  • 序章 コタン

    川は流れる ヌタクカムシュペの峯から 深い谷まをこえて 青くすみ
    ひろびろと大空をうつし また 暗い密林をくぐり いくつもの支流をかかえ
    水芭蕉の群落や 小鳥の巣立つ草原をよこぎり 曲がり 曲がり
    清冽な水のひびきは 白砂かがやく丘をこえ はまなすの花咲く 石狩の浜にそそぐ
    川は流れる 満月こうこうと波にうかび 丸木舟はくだる たくましき若者
    黒髪の乙女とともに ささやきは 愛のしぶき 雁がね 首をそろえ
    白鳥は 翼音高く風をきり いく組も いく組も 川や 湖に 翼を休める

  • 第一章 村の誕生

    密林は密林につづき 老木も若木も 地をうづめ 空をおうて暗く 樹ぎの息吹は
    靄となり霧となり 草原もはてしなくつづく 幾春別川 底ふかく
    沢のごとく地をえぐり 石狩川にそそぐ
    移民たちは 初めて鋸を使い 斧をふるい 鎌をとり 鍬をふりあげた
    経験したことのない 苦しみのうちに 間もなく どん慾な雪の魔手につつまれ
    炉火を燃やしつつ 不安と 郷愁の夢の中で 長い冬をすごした
    遠い春が 野から 山から ぬくもり こぶしは花をつけ えぞ山ざくら 山をそめ
    昇る陽の光に 若葉はかおり まことに潑刺たる天地の春を迎えた
    人びと初めて生きる喜びを感じた こここそが われらに与えられた約束の土地だ
    彼等はふるさとに向って合掌した 手がふるえる 脚がふるえる 神代以来の大地に
    初めて 種子を播いた 萠えよ 萠えよ みのれ みのれ

  • 第二章 故郷の栄光

    開拓の人びとは 執拗に誘いくる 郷愁の声をふりきり 大自然とたたかいつづけた
    老いたる父母の 手は霜ぶくれとなり 血まめは固い節くれとなり
    腕は柏の木よりも強く 腰は弓のように曲がっていった 灯火もなく
    月と星の光で夜を送った目は うるんだ入梅の空の色だ ふるさとの子守歌で
    育った子らに この土地だけが 永遠のふるさととなった
    いま 父母も その頃の老人たちも もういない あの 大自然も 草原も
    すみずみまで耕され 畑となり 田となり ごばんの街に ビルが建ち
    学校 会館 センター 商店がならび 鉄道も 道路も 北海道の八方に通じる
    天の恵みと地の豊かさを誇りとしてうけついでいる

  • 第三章 北国の象徴

    雪がふる ふる 雪がつもる つもる 厚いしとねのうえに 白樺もポプラも
    落葉松も 頭をよせて 眠りつづける 雪の花ふぶきが まいにち まいにち
    窓にふりかかる
    雪のしとねがとけるころ 福寿草は蕾をつける 蕗のとう 頭をあげて空をのぞむ
    土地はよみがえり すべての生命が萠えそめ 若きも 老いも 夢をもち
    希望をもち 未来を生む わたしたちのまちは また あらたな歴史をかさねる
    父母兄弟を愛し すべての人を愛し 自分の道を愛し 自然を愛し
    こころに緑の森をえがき 清き湖をたたえ 明日を考え 夢を語ろう
    すべての人が 住みよい 理想の聖地を築くために 黎明の光 東の山からのぼり
    わたしたちのまちを照らし 夕陽は無限にうるわしく
    石狩の大平原をくれないにそめる ああ青春のまち 北国の象徴のまち
    現実は永久の未来である 幸ある未来に向かって 大合唱し 行進をつづけよう


昭和52年6月25日、岩見沢市鳩が丘記念公園の一角に「交響詩岩見沢の碑」が建てられた。

おわりに

 

 聞き取り調査をしている時、ある人からこんな忠告をいただいた。「今は平等の世の中じゃから、士族とか平民とかそんなことを言わんほうがええで」と
 私が本稿で一番言いたかったことは、そのことに関っている。つまり藩政時代、士農工商という厳しい身分制度下にあって、萩藩士たちはおのれの人間的価値を高いものと思い、平郡島で百姓をするかたわら交替で藩船の掃除や薪くべに来る者たちを見下していたにちがいない。しかし明治維新によって、武士を権威づけていた枠組みがなくなり実力の社会となるや、「軟弱にして気力乏しき」と酷評を受けることとなった。それに対し平郡人が活躍したことは先に紹介した通りである。
 本稿は、士族を懐古するために著したわけではない。絶えざる労働の積み重ねによって得たたくましさが、労働を伴わない修養に勝った事実を伝えたかったわけである。その意味で忠告を下さった人の心情と私の主張は全く同一のものと考えている。
 私たちは今、社会激変の渦の中にまき込まれようとしている。「時代を越えて価値あるものは何か」を自問自答しながら筆をおく。
 尚、本稿をまとめるにあたって資料提供をして下さった岩見沢市教育委員会や札幌市手稲記念館、あるいは、わずらわしい質問に懇切に応えて下さった平郡島のみなさんの協力があったればこそと深く感謝しております。また文中いちいち断わってはいませんが、下記の研究物を参考にさせていただきました。 付記してお礼に替えさせていただきます。

【参考文献・資料】
榎本守恵・君伊彦「北海道の歴史」 山川出版社・「日本の歴史13. 明治」 研秀出版・小川国治他「山口県の百年」山川出版社・「岩見沢開拓の先駆者」 岩見沢教育委員会・「交響詩岩見沢の碑」交響詩岩見沢の碑建立期成会・「柳井市史通史編」 柳井市・「周防大島歴史物語」瀬戸内物産・松島幸夫「平郡西の歴史」 榎本守恵「北海道開拓者精神の形成」雄山閣

 

出典 : 松島幸夫氏著「北海道移民 ~平郡島から岩見沢への場合」