IMMIGRANTS FROM IYO 平郡西の移住者

柳井市立平郡西中学校へ赴任して以来4年が過ぎた。その間、常に平郡西の郷土教材を授業に生かし、身近で楽しい授業を展開したいと思いながらも、怠惰のため、それを果たせないでいた。
 そうしたおり、県から郷土教育の実践例を出してほしいとの依頼があり、本校で行っている創意時間を利用しての伝統行事伝承(亥の子、宮島様、扇子踊等)の様子を報告したのだが、それが実践を反省する良い機会となった。これを機会に郷土史教育に本腰を入れることにした。
 そこで平郡西の歴史に手をつけたが、以外にも平郡西の歴史には不明な部分が多く、調査研究から始めないと教材化できないことが分かった。ところがやっかいなことに、平郡西のルーツは伊予にあり、伊予の歴史にも関わることになった。
 休みを利用して愛媛県北条市浅海と難波を訪ね、平郡西との関係を旅行記風に記したが、内容的には推測の域を出ない拙いものであった。ところがこの度、この研究を更に進めるため、専門教育等研修に該当し、出張旅費をいただいて再び愛媛県に研究に出かけることが出来た。本稿はそのまとめである。
 浅学菲才のため十分なレポートにならないが、郷土史の空白を少しでも埋めることが出来ればと思う。
 尚、元浅海小学校校長であった得居衛先生には突然の訪問にも関わらず、懇切なご教示をいただいたし、平郡の浅海一満氏や小林稔氏には貴重な資料をみせていただきました。
 深く感謝しております。

1 平郡西のルーツ

 平郡西中学校グラウンドの裏山に平見山という標高七〇メートルほどの小山があるが、ここにはかつて城があった。古老の話では、明治頃には石仏が多く残っていたというし、現所有者である和田満氏がミカン畑にする際には、柱らしき古木が深く埋まっていたという。
 地下上申の「平郡島由来書」によると「古城山壱ヶ所西浦平見山ニ有之。但、往古城主浅海大炊ノ助と申仁居城被仕由。其城跡弐畝程、二ノ丸六畝程有之。右浅海子孫西ノ浦ノ四郎右衛門家筋二て御座候事」とあるし、風土注進案によると「一、平見山。平郡西浦畔頭浅海氏蔵方所持仕居候御判物写箋三通差出申候事。
 彼者先祖沙弥浄空と申す者は河野之郎通富之子にて河野家没落後、歴応年中平郡嶋江波海平見城と号し、一城をしつらえて居城仕候…」と記されている。
 つまり平見城主浅海氏は伊予河野水軍の一派で浅海村(現愛媛県北条市浅海本谷)に住んだものがその地名をもって氏名とし浅海政能(沙弥浄空)が暦応年中(南北朝時代)に平郡島へ移住して、平見城を築いたわけである。


 また、重道八幡宮の神主を代々されている小林家に伝わる「家譜之 」には、「私家筋之儀者  河野氏之家系ニ 世々彼国居住仕候所、弘安之頃丹治と申者有故 平郡嶋江渡り初 居住仕候申 ニ 御座候…」とある。


 つまり、伊予河野水軍の家系の丹治という者が弘安の頃(鎌倉時代後期)平郡へ渡り初めて居住したと言い伝えられている。
 いずれにせよ、平郡西は河野水軍の一派が移住したことによって開かれた。つまり平郡西のルーツは伊予にあると言える。 尚、河野水軍が来島する以前の平郡西の様子については不明である。古墳時代のものと思われる石斧が中村正明氏によって西部落を見下ろす山麓で発見されたり、弥生式土器らしきものが脇本平明氏の手によりアダカ(西部落より南東へ約3キロメートル)で出土しているが、定かではない。

2 伊予の水軍

縮三文字紋

河野氏の家紋(縮三文字紋)の由来について「予章記」には、大酒宴の席順が源頼朝は一、北条時政は二、河野通信は三であったからと述べられている。真偽の程は別にしても、源平合戦における軍功大であったことがうかがえる。平郡浅海氏もこの家紋である。

 瀬戸内の歴史は水軍をぬきにしては語れない。伊予の水軍について概観しよう。松山市から北上すること約十キロメートル道前道後の境に高縄山がある。この高縄山に城を築き、眼下河野郷土居を中心にして、伊予に勢力をはっていた水軍が河野氏である。
 河野氏の系図によれば、物部の系統で上古以来伊予の支配者であった越智氏の末裔とあるが、これはおそらく自らを権威づけるための作為であろうと言われている。自出はともあれ河野郷を中心に在地領主として発展し、国府の高官となった同氏は、その立場を利用してますますその実力を伸ばし、強力な武士団を編成したのである。
 さらに河野氏の力を絶対的なものにしたのは源平合戦であった。当時(平安末期)河野氏の勢力圏に隣接する東予には新居氏がおりこの有力ライバルが平氏と親密な関係にあったからか、河野水軍は源氏方に与した。
 養和元年(1181)平家方の侵攻によって高縄城は陥落し河野通清は討死したものの、四年後にはその子通信が一族郎党を率いて屋島や壇ノ浦の合戦で尖兵となって活躍し、源氏方を勝利に導いた。
 以降、通信は頼朝の右腕となって奥羽征伐にも随従した。鎌倉幕府において重要な位置を占めるに到った通信は、北条時政の娘を妻とし、元久元年(1205)には伊予国守護職に任ぜられ、その翌年(1206)には幕府より、伊予国御家人32人の沙汰を止め通信の沙汰とすべき旨の御判物を賜っている。
 その御判物の意味するところは、それまで通信と同じく幕府の御家人が32名伊予にいたが、彼らのすべてを通信の配下に置くことであった。その32名の筆頭に浅海太郎頼季の名が見られる。
 この頃が河野氏の最盛期であった。
 しかし、それもつかの間、承久の乱にあたって、通信は、妻との感情のもつれから(予陽河野盛衰記)一族一門を率いて上皇方に味方したが、大敗し、奥羽平泉に流罪となりそこで亡くなった。このことは、浅海氏を含めて河野一族にとって壊滅的打撃となった。
 ただ、通信の四男、通久は母が北条氏の出であったため一人幕府方に与し、彼によってかろうじて河野家の家運をつなぎとめることができた。

河野氏系図「三島大祝家譜」と「浅海家系図」による

親孝
親経 → 親清 → 通清 → 通青 → 通信 → 通久  通継  通有  通盛  通朝  通尭  通義・・・通直
盛孝 → 親宗 → 通遠 → 浅海能長 → 盛長 → 頼季 → 能信

 その後、河野氏は歴史の表舞台から姿を消すが、やがて文永(1274)弘安(1281)の二度にわたる元の襲来に通有が一族を率いて馳せ参じ、家勢挽回の転機とした。河野家にとって元寇はまさに神風であった。その軍功によって数々の恩賞を賜り、河野家再興の動きは緒についた。
 やがて鎌倉幕府が亡び、後醍醐天皇による建武の新政が行われるが、天皇をみかぎり西走した足利尊氏に河野通盛は一族の家運をかける。それに対し尊氏は通盛に「伊予国河野四郎通信跡所領等は本領たるの上は先例に任せ沙汰致すべきの条件の如し、建武3年(1336)2月18日との書状をよせている。果せるかな河野通盛らの活躍で足利尊氏は京に凱旋し、後醍醐天皇を京から追い出した。その結果、通盛は伊予国守護職を賜り、ここに河野家の再興をなしとげた。
 しかし貞治3年(1364)には讃岐の細川頼之の侵攻によって河野通朝が戦死した。
 引き続き、細川勢は追撃の手をゆるめず、ついに通堯は九州へ下り、宮方(南朝)と組した。詳しくは後述するが、この際の浅海一族の働きは「予章記」に明らかである。九州で反撃体制を整えた通堯は再び伊予の失地を回復し、幕府の和解にも応じて武家方に戻った。
 室町時代は新興武士の台頭が激しく、応仁の乱の後、戦国時代と呼ばれる下克上の世になり河野家も浮き沈みしながら、ついに天正13年(1585)秀吉の四国征伐により、通直をもって河野氏は滅亡した。

3 伊予水軍の平郡移住

難波氏について

 弘安3年の重道八幡宮棟札に、大願主として難波重宗なる人物が載っているが、その難波氏について注釈を加えよう。  中世武士は、それぞれの本拠地名をそのまま氏名としていることが多い。河野氏(風早郡河野郷―現温泉郡)しかり、浅海氏(温泉郡浅海邑―現北条市)しかり、難波氏(風早郡難波郷-現北条市)もしかりである。
 浅海、難波、両地は現北条市の北部に隣接してある。そして浅海、難波、両氏は実態としては一つの血縁集団とみてよい。
 通信の御家人旗頭である浅海太郎頼季の場合、下知状(注資料P40)では浅海であるが、交名簿(資料P43)では難波である。頼信、通頼、政能らも資料により浅海と難波が入れ替わっている。また河野姓を名のることもしばしばあった。

 平郡に現存する最古の文書は、弘安3年(1281)庚辰四月廿日に難波重宗が大願主となって重道八幡宮の棟上をした際の棟札である。これをもって、弘安三年には平郡西がすでに開かれていたことが明らかである。
 それ以前の事に言及している資料は2つある。
 その1つは浅海家系図で、能信の添書きに「後深草御宇勧請宇佐八幡宮永為鎮守周防平郡滞在中也」とある。(注、資料P30)系図には平郡滞在の理由が述べていないが、河野家譜によれば、能信が承久の乱において河野通信に従い上皇方に組して大敗し(1221)領地をことごとく没収されたことがわかる。(注資料P45)この時に能信が平郡にのがれ滞在し、後深草帝(1246~1259)の頃、宇佐八幡を勧請したものと思われる。
 弘安3年以前に言及しているもう一つの資料は重道八幡宮の宮司を代々されている小林家の先祖記である。それによると、弘安2年(1279)に伊予越智郡より河野丹治が百姓三郎を召し連れて平郡島へ移住し、平郡が小島で森林が多い故に名字を小林と改めたとある。ただ、残念ながら、それ「以前之旧記一向相分かり不申候」で、河野(小林)丹治なる人物の素性を明らかにすることができない。
 この期は2度にわたる元寇の間にあたる。もし元が北九州を撃破し瀬戸内に侵攻した場合、平郡は元軍と正面から対峙せざるをえなくなる。そこで、弘安3年に八幡宮の社殿を作り、戦勝を祈願したのかもしれない。
 その翌年(弘安4年)には予想通り元軍が博多沖に現れたため浅海通頼は河野通有に従って馳せ参じ元を撃った。
以上、浅海能信の来島と河野丹治の移住の経緯について述べたが、次に浅海政能の移住について述べよう。
 浅海家系図によれば、政能は伊予浅海村に住んでいたが、晩年平郡島へ移り平見山に居を構えた。祝髪して、浄空沙弥と号し、暦応3年(1340)に八幡宮を造営して大般若経六百巻を書き写し奉納した。さらに海蔵院も建立し本尊として十一面観音を安置した。
平見山の居城は「1 平郡西のルーツ」の通りであり、海蔵院の位置も元は平見山の一隅にあった。

海蔵院の位置

最初は平見城に隣接してあったが、やがて現在の平郡西連絡所のあたりに降りて、しばらくそこにあった。明治六年に平郡東の円福寺後に移り現在に至っている。
寺の山号は今も平見山である。

 浅海政能が平郡島へ移住した頃は、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、南北朝の動乱と事態は二転三転しながら武、公、南北入り乱れて戦った時期である。
 この動乱にあたって、与陽盛衰記に「元弘、建武の乱の頃、嫡家を背いて、或いは官軍となり、或いは将軍に属し敵味方と分かれ…」と嘆いている如く、一族一門のまとまりもくずれ、敵味方に分かれて戦ったのである。
 当然、瀬戸内海でも諸海賊が互いに勢力権を権大しようと激しい抗争をくりひろげた。この時期、周防屋代島をおおまかに観ると、西は大内系が、東は伊予河野系が入りこみ、血なまぐさい争いを繰り広げた。
 このような情勢の下で政能は移住している。河野水軍の屋代島侵攻策の一環として位置づけるのが妥当であろう。

4 河野通尭の西走と浅海氏

 この動乱の最中、浅海政能の子六郎重道は宮方(南朝方)として土居、得能らと共に兵をあげた。金谷経氏を大将とする浅海重通らの兵は、阿波、讃岐、土佐からの大軍を率いた幕府方細川頼春と激戦したが、世田城も落とされ、「光明院安永元年(1342)二、頼春大勢ニテ石鉄山ノ麓大保木ノ天河寺ニ陣ヲ被レ取ケルカ、或時周敷郡千丈カ原(千町原)二打出ラル、河野一族十七人(浅海重通ら)十死一生ノ日ヲ取テ合戦シテ、一人も不」残討死」(予章記)した。(注資料 31)
 頼春軍は勢いにのり、さらに侵略する気配をみせたが、あいにく京で南朝方が蜂起したため急ぎ帰京する。

河野家が「通」の字を用いる由来

平安末期、河野親清には子ができなかった。三島宮の熱烈な信者であった親清の妻が活神犬祝の言葉に従って参籠したところ、大蛇が枕下に寄り臥し、密「通」したことにより男子一人できた。これが通清である。以来河野家は、通信、通有、通盛、通尭など通の字を付けている。

 この間、河野通盛は、前述した如く、一貫して幕府方について行動し、軍功をたてて、貞和六年(1350)足利尊氏より伊予国守護職に任ぜられている。貞治元年(1362)通盛の子、通朝が総領職を継いだが、同年細川軍が再び大軍を以て伊予に侵攻してきたため防戦をよぎなくされた。通朝は世田山城にて戦死し、息子通尭が元服して河野氏を率いることになる。細川頼之はなおも侵攻の手をゆるめず通尭はついに九州へ逃れることになる。その西走、及び伊予奪還に際し、浅海氏が大きな働きをしている。詳しくは資料P47~P55のところに述べているのでそちらを参照していただきたい。浅海家系図には浅海政能の子浅海通政が通尭に従い軍功あって「通」の字をを賜り、以来、子孫が「通」の字を用いたとある。

5 その後の伊予浅海氏

 南北朝期には、伊予浅海村、周防平郡島の両浅海氏は、ともに一体となって行動していた。先に見た如く河野通尭の西走に際してもそうであった。
 しかし時を経るにしたがい疎遠になってくる。ここではその後の伊予浅海氏について触れておきたい。
 鎌倉時代の初頭には河野の御家人の旗頭であった浅海氏だが、じり貧となって古文書にはあまり姿を見せなくなる。管見では二度しかない。その一つは、文明11年(1479)、管領であった細川頼春が勘合貿易における自力拡大のため瀬戸内海廊を勢力下におこうとして河野水軍に挑んだ際、浅海氏らが河野通生の籠る神途城に馳せ参じたことである。
 今ひとつは16世紀中頃の河野家家臣団の構造を示した「河野分限禄」に、侍大将十八将のうち恵良山城主、得居半左衛門通久の配下十六騎の一人として浅海和泉守の名が見られる。
 その恵良成(浅海村と難波村とをへだてる山頂にある)は、元亀3年(1572)織田信長方の猛攻により落城している。その様を「予陽河野家譜」には「山岡、平手、三好(信長方)一族等、集敗軍之兵… 」と記しているが、一族24人の中に浅海和泉守も含まれ滅亡したであろう。
 現在、愛媛県北条市浅海に浅海姓はなく、その近く同市猿川に一軒あり(浅海繁人)松山市に20軒くらいのとのことである。ただしいずれにも古文書、遺品はないという。
 したがって、中世の活躍の様子はひとり平郡の浅海家のみがわずかに伝えているにすぎない。

6 戦国時代の平郡浅海氏

 平郡島の浅海氏はその後どうなったであろうか。
 室町時代は中央政権が弱体で不安定であり、瀬戸内でも諸水軍が覇を争っていた。しかし幸いにも周防屋代島とその周辺は比較的穏やかであった。平郡島も犯されることなく、浅海氏は通勝、通雄、重通、通世、通家、通忠と事もなく続き安逸を貪った。
 しかし、下剋上の風潮となり、大内氏が亡ぶに至って、浅海氏も不動であるにはいかなくなった。諸大名が水軍を味方に引き入れるべく争奪戦を始めたのである。
 そのような情勢下で浅海四郎左衛門通高は、陶晴賢軍に組した。陶軍の城砦は富田の若山城(現新南陽市福川、標高200m)にあって、瀬戸内の島々を眺望でき、内海の船を制圧するには絶好の城であった。
 その富田浦を天文23年(1554)6月、毛利方小早川隆景の警護船が襲った。ちょうど陶軍の主力は津和野に攻め込んでおり、そのすきを狙ったものであった。
 この時浅海通高らが激しく抗戦し若山城は無事であった。この軍功によって、通高は晴賢より感状をもらっている。
 しかしそれより前毛利元就は厳島に宮尾城を築いて、陶軍を厳島におびき出す手はずをすでに整えつつあった。陶軍に比べて兵が少なく誰の目にも劣勢にあった毛利軍は、陸地での正面戦を避け、島での合戦を企てたのである。
 翌、弘治元年(1555)秋、晴賢は大挙して厳島に上陸した。折しも台風が吹き荒れる中、元就軍は暴風雨にまぎれて陶の陣を急襲し、晴賢を自殺に追い込んだ。
 陶氏惨敗の直後、平郡浅海氏を含む屋代島衆は毛利氏に総計1877石の充行地を要求している。屋代島衆とは大内氏の警護を務めていた屋代島在住の十氏(桑原、沓屋、守友、櫛辺、原、長崎、浅海、栗田、塩田、神代)水軍のまとまりである。彼らは厳島の合戦においてかならずしも毛利方に組して働いたわけではなかった。にもかかわらず、元就から、「衆中の儀、弥別儀あるべからざるの由承候、然間警固仕立てられ津々浦々涯分破らるべく候」とその後の働きを期待して充行了解の書状をもらっている。浅海家系図によれば、浅海氏は平郡西に最も近い屋代島の戸田甫三十七万石三斗六升を賜っている。
 なぜ元就は、軍功のない屋代島衆に充行を了解したのであろうか。宇田川武久著「瀬戸内水軍」から引用しよう。
 「防長両国内には陶氏の残党や一揆がしきりに蜂起していて、不安な情勢が続いていた事、そして二つには、周防沿岸の陶氏残党掃討戦と陶氏と結んだ豊後大友氏の海上からの救援が予想されたから、それに対抗できる水軍力が必要であったことがそれである。
 はたして、毛利氏との所領の約諾が実現すると屋代島衆は毛利氏の指揮下に入って、さっそく周防玖珂郡や熊毛郡を掃討する小早川水軍とともに陶氏の一揆討伐に手柄をたてた。」
 こうして通高の行動を追ってみると、大内から陶に、さらに陶から毛利へと極めて日和見的な身の処し方にみえるが、本来それが水軍の性格であった。もともと彼らは陸の権勢と強い主従関係をもたず自由に海運業等に従事していたが、頻繁に戦争に駆り出されているうち次第に武士の姿を強くした。しかし、彼らはあくまでも傭兵であって、恩義に縛られることなく自由に生きのびる道を選択したのである。

7 平郡舸子

 やがて江戸幕府の成立と共に安定した世となり、水軍の戦闘力はもはや必要でなくなった。ある者は御用回船業者となり、またある者は姿を消した。かつて水軍の一拠点であった平郡島もその名残を留めるだけとなる。平郡本島一円が毛利藩政中船手組支配下の舸子(乗船水夫)となったのである。
 これは先の厳島合戦の折、東浦の鈴木左近介等百名が毛利元就軍を首尾よく輸送した功績により、免租の特権を得たことが始まりとされている。
 風土注進案によれば田一六三石余七二八石余畠、計八九二石が舸子一二五人給とある。島民は「平素は農業に従事する傍ら、当番などによって水軍の根拠地三田尻御船倉や運航の宮舟に服務した。」(山口県近世史研究要覧)のである。舸子の勤務地三田尻を訪ねてみると、御船倉跡は、一部が現存するが、舸子町の遺構は宅地化が急速に進んだため全く残っていなかった。
 平郡は舸子給によって実質的には免租となり、作り取りではあったが、元々火山礫の多い土地で平地は少なく難儀をした。注進案にもみられる如く田に対して畠の割合が大きくしかもその畠たるや段々畑で、まさに耕して天に到るぐあいであったから生計は極めて苦しいものであったらしい。 

8 寺社にみる平郡と伊予との関連

 平郡の歴史を伊予水軍との関連でみてきたが、最後にそのなごりを留めている現存物を紹介しよう。
 とは言っても、水軍の歴史は盛衰が激しく、また時代もかなり経ているので、平郡のルーツを伊予に訪ねても遺物はほとんどなく、その匂いを感じる程度で、しかも対象は寺社に限られた。浅学のため単なるこじつけになるかもしれない。諸氏の御批判、御教示をお願いしたい。北条市の寺社については「北条市誌」に依るところが多い。
 その後、文禄元年(1592)には豊臣秀吉の朝鮮出兵が始まる。輝元は秀吉の命に応じて十五万余人の大軍を出陣させたが、その中に平郡からは西の浅海九兵衛通安、東の鈴木小太郎義平等が加わった。義平は軍船にて討死にしたが、通安は帰国することができた。
 




 
  • 1葛城神社

    伊予浅海氏の本拠地北条市浅海本谷にある。河野御家人の旗頭であった浅海太郎頼季が厚く尊崇し、社殿を作り、開墾地を奉献して永遠祭祀料としたのが元久年中である。又正平年中には浅海五郎左衛門が尊敬の念を表している。その他、難波氏等河野一門が深く尊信した。

  • 重道八幡宮
    2重道八幡宮

    先に述べた通り代々神主を勤められている小林家は河野家の末葉である。また社殿造営、再建の棟札には浅海氏、難波氏の名が度々見られる。
    重道八幡宮と称するに到った年代と由来について定かではないが、河野一族は代々通の字を付けており、それが幾重にも続いてほしいという意味あいをもって付けられたのかもしれない。また浅海氏には二人の重道がいるが、そのどちらかにあやかったのかも知れない。一人の重通は平郡島へ暦応年中に移住した政能(沙弥浄空)の子で南朝方として討死している。もう一人の重通は、寛政3年の八幡宮造営の棟札に大願主として載っている越智浅海大炊助重通である。

  • 三島神社
    3三島神社

    平郡のそれは東浦に近い五十谷にあり重道八幡宮の末社である。伊予にはいたるところにあり、北条市だけでも五社を数える。
    それらはいずれも河野氏と密接な関係にあった大三島大山祇神社の末社である。大山祇神社は小千命(乎致、越智)が鎮祭したことにはじまったと伝えられており、全国1100余りの三島社の総本社である。とくに河野水軍の崇敬厚く、多くの田畠、宝物が奉献されている。河野通信、通有はもちろんのこと源頼朝や義経らの鎧も現存する。
    社の神紋も河野氏、浅海氏の家紋と同じ傍折敷角切縮三文字である。
    安芸の厳島神社も大山祇の摂末社であるが、平郡三島神社のある五十谷海岸と厳島神社に関して平郡には次のような伝説がある。
    「平清盛厳島神を崇敬すること厚く、社の建立を発願し、その地を平郡に定め五十谷をその候補地に選んだ。さて島の周囲 を測ると七里に足らぬ事枠の三転と雀の三飛実に残念だがここはいやいやと言って宮嶋を選んだという。以来、いやと呼ぶようになったという」(境吉之丞著、平郡島史)
    尚、五十谷の三島神社は三島の鼻に鎮座しているのがそれで、手前の浜にあるのは近年豊漁を祈って造られたものである。

  • 妙見様
    4妙見(明見)神社

    北条市浅海原のそれは河野氏の北辺鎮護の社として難波氏等に厚く崇敬された。
    平郡のそれも浅海氏の居城平見山の北麓に鎮座する。重道八幡宮の末社である。

  • 山の神
    5貴布祢(貴船)神社

    北条市下難波のそれは、越智益水が弘仁年中、山城国より諸神を勧請したことに始まるが、後河野氏によって社殿補修がなされ、以来河野氏・浅海氏等の崇敬が厚かった。
    平郡のそれは古地図によれば、現小学校あたりに示してある。地元の人々が山の神と称している石の祠が妙見社と小学校の中間にあるが、それかもしれない。これも重道八幡宮の末社である。

  • 海蔵院
    6海蔵寺(院)

    浅海政能(沙弥浄空)が伊予から平郡へ移住し、平見山に城を構えたが、その城に隣接して海蔵院を建立し十一面観音を本尊として安置している。(現在東浦に移転している。)
    それと同名の寺が北条市中村土居にもあった。河野氏の本拠地高縄城の前衛基地である日高城にゆかりの深い寺である。残念ながら現在は無住となっており老木が繁った林の中にお堂が一宇残っているのみである。隣接して明見神社がある。

  • 赤石神社
    7明石神社

    北条市浅海原にある名石(めいし)山には城砦があり明石(めいし)神社が付属していた。平郡にも明石(あかいし)神社があって、広く周防灘の島民から崇敬を集めている。

  • 役の行者
    8役(えん)の行者(ぎょうじゃ)信仰

    平郡東浦の藤井智氏の屋敷内にお堂があり、役の行者(役小角(おつね)という修険道の開祖)像がまつられている。洞窟の中で一本歯の高下駄をはき、三叉戟を持って行をしており、両袖には赤鬼・青鬼を従えている。元和3年(1617)庄屋鈴木家より当家へ輿入れした際に持参したと言い伝えられているが、背銘がなく制作年代等については不明である。

  • この役行者を河野氏が熱烈に進行していたふしがあるので紹介しよう。
     平安時代末、末法の不安が広まる中大山祇神社付属の東円坊に妙尊という者がおり、修険道の心得があって加持祈祷符呪(かじきとうふじゅ)を行い、河野家の婦人達に取り入っていた。「妙尊は役行者の法を学びて不思議の術を行い諸人これに帰依す。別して婦人之を敬す。河野家の婦人なども之を招請して帰依すること夥し」(三島宮御鎮座本縁)かったのである。それに決定的役割を果たしたのが河野通清出生の謎である。妙術により神と密通して通清が生まれたというわけである。以来河野家は通の字を用いることになった。
    平郡浅海家では、幕末の四境の戦いのおり、各地を転戦奮闘した政之進が呪術を行い、村人の希求に応じていたという。古老の話では闇夜佛前に燈明をあげ人を寄せつけずに行ったという。

資料 : 松島 幸夫氏著「平郡西の歴史 伊予水軍との関連」より