ここから見える平見山の頂には、室町時代に山城が築かれていました。
弘安3(1280)年に浅海通頼が蒙古の襲来に際して見張り台を設け、暦応3(1340)年に浅海政能が南北朝の戦乱に対応して本格的な城郭を築きました。
浅海氏は、鎌倉幕府に瀬戸内海を支配していた河野氏の一族です。
現松山市の北端に位置する浅海の地を本拠にしていたことから、浅海氏を苗字としたのです。

浅海政能が伊予から平郡島に移住して平見山城を築いた暦応3(1340)年は、足利尊氏が征夷大将軍に就任したものの政局は安定せず、南北朝の戦いが激しさを増す時期でした。
政能の子・重道は北朝に組みして戦死をしています。
南北朝の戦乱がここ平郡島にも多大な影響を及ぼして、平見山城が築かれたのです。

江戸時代に記された「地下上申」の「平郡島由来書」には、平見山城について「古城山壱ヶ所、西浦平見山ニ有之。但、往古城主浅海大炊之助と申仁居城被仕由。其城跡弐畝程、二ノ丸六畝程有之」とあります。
つまり西浦の平見山城の城主は浅海大炊之助で、主郭は二畝(約200㎡)の広さがあり、副郭は六畝であったと述べられています。