科学が発達する前は、人々は不思議なことや教訓、地域の歴史を民話として語り継ぎました。
民話は、その土地で大事にされていたこと、恐れられていたことなどを伝える、島の歴史書です。
海難事故は今も昔も突然やってくる恐ろしい厄難です。
その厄難を「猿猴」という妖怪になぞらえることで、理不尽さを伝えるとともに、島の人々を海の事故から守ったのです。
早田八幡宮の浜殿から数十メートル程の参道の左側にある石碑があるが、その石碑についての伝説が今も伝わっている。
昔、夜な夜な猿猴(えんこ)が出て人の通るのを妨げた。
そのため、村人は夜の通行ができなくなったので、村役人と有力者が相談して一策を案じ、猿猴と話し合いをすることにした。 「汝ら、なにゆえに通行人に妨害をなすや。」猿猴が答えて言うには、「我が同族のために一箇の碑を建て、供え物をして敬意を表してもらいたきためなり。それも碑尻の腐るまで。」と。
そこで村では鉄の碑を建て、供え物をしたところ、被害はぴたりと止んだが、その碑もいつしか腐って倒れた。するとまた妨害が始まった。
そこで村人が知恵を絞って、石碑ならば腐る心配はあるまいということになり、石碑を建てて今日に至ったと伝えられている。(『平郡島史』より)
※ 猿猴(えんこ)は猫みたいなものとも、河童ともいわれている。
暗くなると「があが あ」、または「くがあ」と鳴いて、夜中に海から上がってくる。人を見ると「相撲をとろう」と誘いかける。頭に皿ほどのものを載せていて、皿に水があるときはめっぽう強いが、乾いてしまうと弱りこんでしまう。
猿猴の魂胆は相撲ではなく、海へ引っぱり込むことで、人間の舌が好物ということである。だから相撲に誘われると、「逆立ちしてみたい」ということが大切である。
五十谷の地名の由来を伝える民話です。絶景を目にした人々は伝説を残し、その見事な美しさを称えました。
平郡の庄屋 鈴木左近介は狩り好きであった。
ある日、五十谷の谷に来て、岩陰で獲物を待っていると、谷の先端の岩に一羽の白鷺が止まっている。喜んで矢をつがえ、いざ放とうとすると、白鷺はたちまち消えて、直垂姿の老神官が現れた。左近介は大いに驚き、これは五十谷明神が自分の殺生を戒めようと、仮の姿で現れたのであろうと思って明神を伏し拝み、以後一切の殺生をやめた。その岩は今でも白鷺の鼻と呼ばれている。
平郡は厳島と同じように七浦七胡子(七つの入り江と七つの湾)で、周囲もおよそ七里である。初め宮島さまは平郡島に安住したいと島の周囲を測らせたところ、かせ糸(紡いだ糸)を巻く枠の三転がしと、雀の三飛び程長さが不足したので「ここはいやいや」と現在の厳島に渡られたという。
それが五十谷の地名の起こりである。
役行者の像は高さ一尺余の木像で、元和の頃(1615~23)、庄屋の娘が輿入れの際に持参したものと伝えられている。このとき庄屋が与えたのがこの像と文書や刀などで、現在も宝物として残っているが、その宝物の一つに「マシュクの袈裟」があり、これは中将姫(藤原豊成の娘で伝説上の人物)が織ったものという。
また昔、敗残の武士三人の兄弟が三体の仏像を守り、平郡島に身を寄せて再起を計っていた。
ほどなく一人を島に残し、一人は九州方面へ、一人は山陰地方に旅立っていった。その際に再会の時の証拠の品として仏像を一体ずつ所持した。島に残った一人が所持したのが役行者像であったと伝えられている。
この仏像は眼病に霊験があるという。(境吉之丞著『平郡島史』より)
海童社の東寄り100メートルほどの所に、かなり太くて平らな石がある。
傍らに梅の木が枝を広げて石を覆っている。そこの地名を勘場と呼び、勘場奉行の下役の役所の跡をいう。その石の下に甲冑刀剣類が埋めてあるという。庄屋15代の鈴木実之助が寛延2年(1749)4月11日、ここで切腹した記録があるから、甲冑類も案外、彼のものかも知れないとされている。(『平郡島史』より)
水源の少ない島にとって、水は信仰の対象でした。
海の端にありながら、滔々と真水をたたえる不思議な池に、人々は感謝し、末代まで大切に受け継ぐために、美しく壮大な伝説を残しました。
今を去ること寿永の時代(1182~84)、平家の軍は川の富士川の水鳥の羽音に驚き、敗軍して以来、各所の戦いに利あらず、西へ西へと流れに流れて四国屋島の一戦にも大敗を喫し、一部の兵船は熊毛郡室津半島に落ちのび、阿月の池の浦の潟(砂丘などで外海と分離してできたみずうみ)になった大池に潜んだとされている。
勝ち誇った源氏の軍兵はこれをも尋ねあて、両軍入り乱れての合戦となった。
大池はただならぬ修羅の巷と化し、青く澄んだ水はたちまち血の池となった。
驚いたのは池に住む主である。
伝えられるところによると、この池の主は釈迦如来の使者と言われる大蛇で、幾久しく平和な生涯を送っていたが、時ならぬ剣戟の音、阿鼻叫喚の声に、聖地を血でけがされたのではたまらない、すでに居るべき所ではないと住みなれた池を後にした。
ひとまずすぐ上の皇座山に登った。皇座山の山頂には大蛇が住んでいたといわれる跡があり、今もなお一帯は草木も生えてない。山頂から見ると、すぐ目の前に緑豊かな美しい島が横たわっている。
その日の暮れ方のこと、室津半島から平郡へ漕ぎ帰ろうとする漁船が18~19歳の、この近くでは見たこともないような美しい女性に呼び止められた。女性はどうしても今夜中に平郡に渡らないといけないという。
「なにとぞお渡したまへ。お礼として、そなたが漁に出た時、ただ一度だけ、船いっぱいの獲物を得させてさしあげましょう」と固く約束をした。
漁夫は、この夢のような話を半ば怪しみながらも、とにかく美しい女性に請けおわれるままに平郡に渡した。女性が指さした平郡西の波打ち際を見ると、驚いたことに、今までなかった大池がにわかにできているではないか。目をこらすと、青く澄んだ美しい池である。
女性はその美しい池のそばまで進むと振り返り、「私の家はすぐそこです。お礼の漁はこの一帯でなさってください。それもただの一度でございますよ。決して二度と網をお打ちになりませぬように」と固く言いおいて、かき消すように見えなくなった。漁夫は次の朝、半信半疑ながら、ともあれ一網入れてみた。ところが獲れるは獲れるは、たちまち船は魚であふれた。
浜へ帰り魚を売り、おびただしい利益をあげた漁夫は、大魚の味を忘れることができなかった。女性のことばを反古にして、予備の船まで用意して再び漁に出た。二度めも同様に船は魚であふれたので、いざ帰ろうと船を岸へ向けて漕ぎ出したところ、予備の船までいっぱいだった獲物は、たちまち蛇と化して大小幾千がうねりまわり、すでに何匹かは漁夫の足を巻こうとしている。漁夫はびっくりして生きたここちもなく、船を捨てて海へ飛び込み、命からがら逃げ帰ったという。
女性が姿を消した池は「蛇の池」と呼び、「滴じゃというても粗末にならぬ、ここは蛇の池神の水」と後に俗謡にも歌われ、島の人は今もこの池の水は神水として灌漑に使うこともなく崇めているということである。海のすぐそばの淡水池としては珍しいのだが、たたりがあるということで、金物はいれられないとされている。(『平郡島史』より)
仏像には「開眼」という、魂を入れる行事があります。
魂が入り、持ち主に大切にされている仏像は、自ら持ち主を選ぶようになるのかも知れません。
薬師如来像は浄光寺境内にある等身大の木製座像で、山口県の文化財に指定されている。
昔、この仏像の漆塗り替えのため、大阪の商人に託した。間もなく塗りあがったが、その引き取りの際に商人は一計を案じ、同じような仏像を三体並べて、「この中から本物をお引き取りください」といった。
困ったのはお引き取りに言った使いの者で、どれが本物なのか、どうにも見分けがつかない。こうなると人間の力ははかないものと悟り、仏におすがりするほかないと、冥目合掌して「見分けさせたまえ」と一心に念じた。そして、やおら目を開いてみると、あな尊と、まん中の仏像が目を左右に動かし、本物であることをお示しになったではないか。使いの者は喜んでそれを持ち帰ったということである。
またある時、この薬師如来を盗み出そうとする者がいた。盗人が手を伸ばしたとたん、如来は大声をお出しになった。その声を聞きつけて、お参りの者が駆け集まったので、難を逃れることができた。
これも平郡に残る伝説である。
この薬師如来は、眼病に霊験があるという。(『平郡島史』より)
実際に起こった事件がモチーフの民話は少なくありません。
「トロイの木馬」の伝説はあまりに有名です。
平郡の東南端、三海里ほどの沖合に幽霊船が出没するという怪異譚がある。
にわかに嵐が起こって水怒り、波狂う闇夜に、巨大な黒船がすうっと浮き城のように現れるのである。マストに一筒の灯火がつくと、見るまに数を増やし、船のすべてが灯火の固まりとなり、暗黒の怒涛の中に火の浮城を形造るという。
この地には、幽霊船を見たと証言する古老は多い。
ある時は、火の浮城は山に登って消えたという。また、たこ漁の際に、海底から船で使っていた金杯を抱えたたこが上がったという話もある。
これは明治8年(1875)ごろ、大阪丸という御用船が食糧・金銀を満載して航海中、途中で船長らの幹部が室津か上関に上陸して豪遊し、ついに御用金のほとんどを蕩尽した。彼らはその責めから逃れるため、平郡沖においてわざと船を沈没させ、多くの水夫らを見殺しにして自分たちだけが助かった。
そのとき罪もなく殺された水夫の霊が浮かばれず、今になっても怨霊と化して幽霊船になるのであろうといわれている。(『平郡島史』より)
昔、あるところに米谷ふくまつという、米の桝を盗む(桝目を自分に有利にごまかすこと)男がおった。だれもが「感心せん人よ」と思っていたが、近くの婆さんが死んだすぐ後から、ふくまつも死んだ。
ふくまつは死んでからもええことを思いついた。婆さんが五升ほど入った米袋を持っておるのに目をつけ、「腰が曲がっちゃあ、米袋が持ちにくかろう。閻魔大王さまにさしあげるんなら、そこまで持って行っちゃげよう」と、受け取るやいなや、全速力で駆け出した。
大王さまは、ふくまつが来たら地獄へやろうと待っていたところ、息をはぁはぁいわせてやって来た。見ると手に米の袋を持って、「これ、さしあげます」という。それでは極楽へ行け、と決まり、ふくまつはまた駆け出した。
その後から婆さが来て、「そこにある米袋は、わしが大王さまにさしあげようと思って」と申し上げたので、「そうか、けしからん。追いかけろ」ということになり、鬼たちに命じてふくまつを追わせた。鬼たちやっと追いついたところがちょうど極楽の門のところで、門が閉まるところだった。
中からは、「ふくは内、鬼は外」といふくまつの声が聞こえてきた。
生きている間も悪いことをつづけ、そのうえだました米五升で極楽へすべり込んだという話。
仏教の教えが浸透していた日本では、古くから「あの世」「この世」の境界が曖昧でした。
人々が寝静まる深夜に「あの世」のものが跋扈する伝説は各地で見ることができます。
明け方の二時か三時を回るといちばん鶏が歌う。そのころ、どこからともなく「ごそっ、ごそっ」と音が聞こえてくる。その音で、浜に出ていた者はところかまわずひれ伏して、音の通り過ぎるのを待つ。
しばらくして頭をそおっと上げて見ると、又五郎さまの姿が遠くを歩いている。
又五郎さまはごっついわらじをはき、どすんと大きな刀をさし、頭に大きな編み笠をかぶっていなさる。それはりっぱな大きな方ですと。
みんなはお寺の石段をのぼり、真宮さまのお墓に入られるまで拝むんですと。