瀬戸内海の南方に位置する平郡島は、海運の誕生と共に、歴史の要衝となりました。
日本の歩みの節目節目に登場する、平郡の人々の歴史を紹介します。
今から数万年前、瀬戸内海が草原であった頃には、平郡でも原始人がナウマンゾウなどの巨大獣を追って移動生活をしていました。平郡島で人が定住を始めるのは、縄文時代や弥生時代になってからです。島のあちこちで、縄文土器や弥生土器の破片が採取されることによって判ります。
平郡島の様子が文献によって解るのは源平合戦以降です。元暦元(1184)年頃に、源義仲の遺児である平栗丸(平群丸)が、鈴木三郎仲光を引き連れて東浦へ辿り着いたとの記載が初見です。鈴木氏は東浦に住みついて、社寺や砦を築きました。一方の西浦には、文永11(1247)年の元寇の際に、河野水軍の一派である浅海能信らが渡って来て砦を築き、西方からの侵攻に備えました。元寇の危機が去ってからも浅海氏は西浦に住みついて、社寺を建立しました。
江戸時代になると、その際の支援に報いて平郡島民のうち100人を舸子役(かこやく)に任じ、武士格として扱いました。舸子とは長州藩船の水夫で、防府の三田尻等に出張しました。
明治時代には平郡舸子が士族となり、北海道への士族移民の資格を得ます。岩見沢や滝川に入植しました。他の地域からの移民に比べると、平郡島出身者は苦労によく耐えて開墾を順調に行い、大いに称賛されました。北海道で見せた平郡島民の底力は現在にも続いており、島に新たな風を起こそうとしています。
今から数万年前の地球は寒冷期にあたり、巨大な氷が極地を広く覆って、瀬戸内海には海水がありませんでした。したがって当時の平郡は島ではなく、山並みだったのです。
平郡周囲の草原ではナウマンゾウやオオツノジカなどが闊歩していました。それらの巨大獣を追って原始人が、大陸からやって来ました。原始人は一か所に定住することなく、巨大獣の皮で作ったテントを家とし、獲物を獲得しながらの移動生活をしていました。平郡の山裾でもテントを張ったことでしょう。現在でも平郡島の周辺で、海底に散乱しているナウマンゾウの牙や臼歯などの化石が漁網にかかることがあり、当時の様子を垣間見ることができます。
今から約1万年前に地球が温かくなって、瀬戸内海に海水が入り込んでくると、平郡は島になります。温暖化に伴って小動物が多くなり、木の実が増えて、食料が豊富になったことから定住が可能になりました。平郡島のあちこちで、縄文土器や弥生土器の破片が出土しますから、島になった当初から人間が住み続けていたことが判ります。
平安時代の終末期に武士の力が伸張した結果、日本各地で合戦が起こります。
元暦元(1184)年の宇治川の戦いにおいて、源(木曽)義仲の軍が敗れた際に、義仲の遺児である平栗丸(平群丸)が大和の吉野に逃げ延びます。さらに危険が迫ったために、従臣の鈴木三郎仲光らに守られて瀬戸内海を西行し、平郡島の東浦へ辿り着いて身を隠したとの逸話があります。そのことによってこの島に平群の名がつき、後に平郡の表記になったと言われています。
なお平繰(へくり)中将友安が滞在したことによって、平郡の名がついたとの伝承もあります。さらには古文書に「倍具里(へぐり)」や「遍ぐり(へぐり)」との記載もあって、由来については諸説があります。
東浦に住みついた鈴木三郎仲光は、武運を祈って早田八幡宮を創建しました。仲光が死去すると、子の義重が菩提を弔うために円福寺を建立しました。やがて東浦を見下ろす高台に、平祢川城砦と城の平山城砦を築きました。
さて東浦の浄光寺には、鎌倉時代に作造された木造薬師如来坐像が安置されています。肉付きのよい流麗な作風は平安時代の藤原仏の特徴を忠実に受け継いでおり、県の有形文化財に指定されています。鈴木家や浄光寺に残る文書によれば、「文治元(1185)年に伊予国(現愛媛県)から薬師坊主を迎えた」との記述があり、それに関連しての坐像とされています。薬師如来像の存在によって、鎌倉時代には高い文化が流入しており、平郡島に根付いていた証拠であると言えます。
鎌倉時代後半の文永11(1247)年になると、元(中国)が大艦隊でもって日本に攻めてきました。
もしも元軍が北部九州を突破し、上関海峡を通過して都に攻め上ろうとすれば、平郡島あたりで元軍の進行を阻止しなければなりません。平郡島に砦を築いて、船団を駐屯させることになりました。
当時は河野水軍が鎌倉幕府に従って瀬戸内海を支配していましたから、幕府は防備を河野氏に命じました。河野氏本家は北九州の防備に向かいましたから、平郡島での防備を一族である浅海氏に指示しました。浅海能信は現在の愛媛県北条市浅海から平郡島の西浦に軍団を移動して砦を築き、平郡島を防禦の要にしました。また別の古文書には、弘安2(1279)に河野丹治が百姓を引き連れて平郡島に来たとの記載もあります。
砦は、旧平郡西中学校の南東側にあたる平見山に築かれました。西方からの進軍をいち早く発見できる場所です。幸いに元軍が瀬戸内海に侵入することはありませんでしたが、浅海能信や河野丹治たちは、そのまま平郡島に住みつきました。
能信は髪を落として出家して浄空沙弥と称し、弘安3(1280)年に重道八幡宮を造営し、大般若経600巻を奉納しています。併せて海蔵院も建立しました。
戦国時代の防長(現山口県)は有力大名の大内氏が領していましたから、平郡島も大内氏の支配下にありました。ところが重臣である陶隆房(晴賢)が、大内義隆を自害に追い込み、陶氏が防長を領することになります。
天文23(1554)年、陶氏の本隊が富田城を発して津和野に攻め込んだ隙に、毛利氏配下の小早川軍が海上から富田城に攻撃をしかけてきたので、平郡西浦の浅海通高たちが駆けつけて富田城を守りました。富田城での戦いは、毛利氏と陶氏の存亡をかけた大合戦の前触れでした。大合戦とは、弘治元(1555)年の厳島合戦です。毛利方と陶氏方の双方が全軍を投入しての衝突になりました。
弱小の毛利方が強大な陶軍を厳島に誘い込み、奇襲をかけて全滅させる策をとったのです。夜明け前に奇襲をかけるには、敵に気づかれぬように闇に紛れて、毛利軍を本土の地御前から厳島の包ケ浦へ渡海させなければなりません。能島水軍を味方につけましたが、渡海のための船が足りません。毛利方は方々の浦々に船を出すように催促しました。勝敗の見通しが立たないために、多くの浦が出船を躊躇しましたが、平郡島は可能な限り多くの船を出しました。台風来襲の影響もあって渡海に難渋しましたが、首尾よく毛利軍を送り届けました。その結果、奇襲は大成功を収め、陶の全軍を壊滅させました。
弱小の毛利軍が強大な陶軍に勝利したことから、後に歴史家から「西における桶狭間の戦い」と称されました。毛利氏が西の雄になる際に、平郡島の人々が大きな手助けをしたのです。
西国で最大勢力になった毛利氏は、厳島合戦で多大な貢献をした島民に恩を感じていました。
戦国時代が終わって長州藩を治めることになった毛利氏は、厳島合戦に功績のあった平郡島の人々を武士身分にして、年貢米を納めなくてよいことにしました。平郡島には稲田がほとんどないため、喜ばしい判断でした。
舸子となったのは島民全員ではなく、厳島渡海に馳せ参じた100人としました。与えられた任務は、毛利水軍の船での水夫仕事です。船内の掃除をしたり、帆の上げ下げをしたり、船綱の脱着をしたりしました。江戸時代は平和な時代ですから、軍船での任務はほとんどなく、参勤交代で使われる御座船や朝鮮通信使を護衛する先導船の維持管理や運航に携わりました。
長州藩の御船蔵(おふなぐら)は、萩と三田尻(防府)にありました。したがって平郡舸子となった者は三田尻に住んで、任務を遂行しました。ちなみに三田尻の御船蔵の北側の通りが、舸子町と称されました。平郡島からの人たちが住んでいた場所です。
武士身分の平郡舸子は、交替制でした。藩は人選を島内に任せており、100人を交替で三田尻に出しました。なお繁忙の際には125人の時もありました。舸子の当番になった年には三田尻に出かけ、そうでない年には平郡島に戻って農業に勤しみました。武士になったり農民になったりと、他に類例のない特殊な身分制度が、平郡島にはあったのです。
江戸時代の平郡島は大島宰判に属し、久賀の代官が管轄しました。庄屋は鈴木家が世襲で勤め、4人の畔頭(くろがしら)が補佐をしました。文政8年(1825)からは農民の意見を取り入れて、庄屋を鈴木家以外の家に任命することもありました。
資料提供 柳井市 教育委員会
※ 詳しくは、平郡島の雄々しい歴史【 PDF 】