平郡島にはわずかな平地しかありません。人々は岩だらけの原生林を苦労して段々畑に変え、農作物を育てましたが、水の確保が難しい上、地味が良くないために、その収量は十分ではありませんでした。その上に明治16年の干害、17年の風水害によって、想像を絶する痛手を被りました。
防長新聞は17年6月に、平郡島から目と鼻の先にある周防大島安下庄について「農民漁民は最も困難を極め、日々の食餌に、糠あるいはソバ、麦粕、豆腐粕に柿の葉、ピンピン草を混和して常食となし…」さらに3か月後には「このまま一両年過ごせば、餓死する者もでるらん」と窮状を報じています。
長男が家督を継ぐ時代、島の次男、三男たちは当時国が推し進めていた移民計画に、積極的に名乗りを挙げました。
東浦の早田八幡宮や西浦の重道八幡宮、東羽仁の海童神社に参拝すると、北海道の人々が奉献した狛犬が、参拝者を迎えてくれます。狛犬の台座には「北海道岩見沢 明治十七年開始ヨリ 同廿四年マデ移住者」と刻んであります。平郡島から北海道岩見沢と滝川に多くの者が移住し、立派に開墾を成し遂げ成功した証として出身地の神社に狛犬を贈ったのです。
北海道へ移民することになった経緯を見てみましょう。
明治維新によって武士は、士族との肩書をつけられましたが、俸禄(給与)がなく多くの士族が貧困に陥ったために、新政府への不満が高まり、不平武士たちの反乱が各地で起こりました。維新を推進した長州でさえ前原一誠らが萩の乱を、薩摩でも西郷隆盛が西南戦争を起こしています。これは近代化推進を図る新政府の大きな障害になりました。そこで新政府は、困窮士族の生計を成り立たせるために、補助金を出して明治17年より北海道への士族移民を実施したのです。
江戸時代の平郡島には刀を差した武士はいませんでしたが、交替で舸子となり武士格となる者がいました。そこで維新後に100人が士族に認定され、移民資格が与えられていたため、平郡島にも募集の知らせが届きました。
当時、平郡島は食糧難の最中。そこに折よく舞い込んだ移民話に、とくに土地を持たない次男・三男が飛びつきました。ところが士族の資格があるのは長男だけです。そのため多くの次男・三男が長男に成りすまし、北海道に旅立っていったと言われます。
制度開始の明治18年(1885)に平郡島から岩見沢への移民は23戸にのぼります。
もう食べ物に困ることはないと、希望に胸膨らませ北海道に渡り、小樽からはSL弁慶号が引っ張る石炭運搬用の貨車に乗って、小雨の中を石炭粉で真っ黒になりながら岩見沢駅に着いた人々に待ち構えていた入植地は、これまで人の手が入ったことがない、大木が立ち並ぶ原生林でした。
斧で巨木を倒しても、どかっと居座った根は人手で掘り出さないとなりません。手の指が硬直して動かなくなるまで働くつらい日々が、来る日も来る日も続きました。
冬は想像だにしなかった高さに雪が積もり、朝起きると、布団の周りは降りこんだ雪で真っ白になっていました。暖かい夏は快適だろうと期待していたら、やぶ蚊が血を吸い、ブヨが噛みついてきます。
夏にはマラリヤ、秋には腸チフスが蔓延して、入植者を悩ませました。
なお、官報によると「平郡からの入植者は、着実な志をもって開墾を果たしている。余裕を生んだれども質素倹約を守り、なおも増産に努めている」と記載して褒め讃えています。
日本全国から集まった入植者の中で、平郡島出身者だけが抜群の成果をあげ、底力を見せつけたのです。 また同時期に北米やハワイなどへも、平郡島から188人が移民しています。
様々な困難を克服し、故郷に送金をしながら、現地での生活に馴染んでいきました。
資料提供 柳井市 教育委員会
※ 詳しくは、平郡から北海道への移民【 PDF 】