※ この記事は2017年、アメーバブログ「物語が始まる島 平郡島」に投稿した記事を再編集したものです。
島生活の始まり
高校まで柳井で暮らしていた真希さん。岡山の看護学校に進学。
そのまま岡山の病院で数年働いたのち、柳井に帰ってきました。
「柳井で生まれ育ちましたが、平郡島のことは知りませんでした」
と真希さん。
保健センターで一年間お世話になりながら、平郡島へ月に一回ほど、訪問看護に訪れるようになりました。
その後、平郡島へ住居を移し、デイサービス職員として働くようになり、現在は平郡診療所の看護師として働いています。
初めて離島生活をするにあたって不安なことはなかったのかを尋ねると、真希さんは「実家と比べると山か海かの違いというだけで、それほど違和感はありませんでした。平郡に来た当初から島に早くなじめるようにと、イベントやスポーツなど、皆さんにいろいろと声を掛けてもらえたのがとても助かりました」。
稔さんは平郡育ち。
広島で大工をしていましたが、高齢になった親と同居するために平郡島へ帰ってきていました。
稔さんが、島の若い人が集まる飲み会に真希さんを誘ったことをきっかけに、親しく話をするようになり、その中でも中学時代の恩師である美術の先生が稔さんの伯父であることを知り、縁を感じました。
その後、めでたく二人は結婚。
結婚当初は一緒にミカンや野菜をつくったり、稔さんの船で一緒に釣りなどをして楽しんでいたそうです。
アジ、スズキ、ヤズが捕れたとおっしゃっていました。
今でも冬にはイカ釣りに一緒に行くことがあります。
島ならではの遊び方ですね。
島の食事と休日
結婚当初は稔さんのお母さんが調理をする機会が多かったようですが、キッチンをガスからIHに変えたことをきっかけに真希さんが料理を作るようになりました。
(平郡でもガスからIHに変える方が増えています)
離島生活というと、皆さんが心配されるのは食事面。
長谷川家はどうしているのか聞くと、食材は基本的に生協と農協で調達されており、おもには、冷凍食品や肉、牛乳やヨーグルトといった乳製品を購入しているそうです。
米は実家から、野菜は周りの方からいただいているそうです。
これは平郡では至るところで見かけるお裾分けの文化ですね。
食費は月に三万円ほど。
「本土と違って欲しいものがすぐに手に入るとは限らないのでそこは気を付けています」と真希さん。
疲れて何もしたくない時でも、島だと外食に頼ることができないので、そういったときには冷凍食品を重宝するそうです。
真希さんの休日の過ごし方を聞いてみると、結婚当初は釣りにも行っていたけれど、今はもっぱらインドア派。
以前は本土の柳井に出た時に本をまとめ買いしていたけど、専門書を取り寄せたことをきっかけにネット通販を使うようになり、小説を中心にネットで注文した本を年間で50冊以上も読んでいるそうです。最近は舞台のDVDも良く見ていて、今ハマっているのは 「劇団 新感線」。
たまに本土の友達と会って、食事や買い物に行ったり、実家に顔を出したりするのも気晴らしの一つだとか。
島生活の良いところを聞くと「時間感覚が普通の2倍の、ゆったりとした生活。時間に追われないので、時計をあまり見なくなりました。」とのこと。
これも平郡の魅力の一つ、スローライフですね!
島の医療
看護師として働く真希さんに、島の医療について聞いてみました。
「本土と全く同じものを求めるのは難しいですが、それでも高血圧、成人病、糖尿病といった慢性的なものや、ちょっとした怪我の縫合など、一通りのことは対応できます」とのこと。
より重症の患者さんや、専門性が必要な場合、本土の病院を紹介することもあります。
耳鼻科や眼科などは紹介を受けて、本土の病院に通っている方もいるそうです。
緊急時には、いざとなったら緊急船やドクターヘリも対応しています。
また、平郡には週2二回、整体師の方が来られ、マッサージ、お灸、針治療もしてくれます。
最後に、看護師として一番、思い出に残っていることを聞いてみると、100歳近いご高齢の方が、最後まで自宅で生活でき、それに自分がしっかり関われたこと。
本人も家族も自宅での生活をずっと希望していて、最後は奥さんと息子さんが見守る中で息を引き取られました。診療所の医師の理解と協力もあって、在宅での看取りが叶ったことがうれしかった。」
と答えていました。
「以前働いていた病院では、いろいろな患者さんがどんどん入れ替わり、日々の忙しい業務に追われる毎日で、患者さんが退院された後は、関わることはほとんどなかった。今の診療所での仕事は、大変なことも多いけれど、島で一緒に生活していく中で皆さんに必要と指定もらえることにやりがいを感じている。」
とのこと。ほとんどの人が顔見知りという、島ならではの実感ですね。